あるところ、西の方の町に一人の人間がいた。
彼は『透明人間』だった。
生まれたときからなのか、何か原因があったのか、
彼自身にもわからない。
どこで生まれ、育ち、今に至るのか。
そして、なぜ透明なのか。
彼は知らなかった。
とりあえず『記憶喪失』ということになっている。
だが、記憶があったかどうかもわからない。
彼はいつも、長いコートを一枚羽織って、帽子を被り、
そして、仮面をつけていた。
特に飾りもない、とてもシンプルな、白い仮面。
町で行き交う人々には印象的だったが、
彼自身は特に気にすることもなく、むしろ気に入っていた。
あるとき、
町中の通りを歩いていて、
一人の乞食と出会う。
普通の、このあたりにはときたまいるような乞食だ。
だが、たまたま目が合った。
その乞食は、白い仮面の奥の瞳を見据え、
「あんた」
話しかけてきた。
細い身なりに似合わぬ、低い声だ。
「?」
「自分の本当の姿、知りたくはないかい?」
「!」
「いい薬がある。
一瓶飲んで、鏡の前に立てば、
自身の真の姿が見えるんだ」
言葉が出なかった。
そんな物があるならばほしい、だが、もらっていいのか。
怪しい乞食から物をもらうこと自体もためらわれた。
「迷うのは当然のことだろうな」
さも心を読んでいるかのように、乞食はいやらしい笑いを浮べる。
「べつに、いつでもいいさ。
しばらくはここにいるつもりだ。
…金もいらんし。
お前にとって、本当に大切なことだけを、よーく考えるんだな」
言って、
乞食は立ち上がり、ボロ布を纏って去っていった。
家に帰って、仮面を外す。
洗面台の鏡の前で、自分の顔を眺めた。
何も、うつってはいない。
確かにあるのに、どこにも見つからない自分の顔。
…もし、ここに『顔』があるのなら、
いったいどんな顔なんだろう?
顔だけじゃない、手、足、体、全部。
どんな風に見えるのだろう?
考えるだけでわくわくする。
だが、
本当にあるのか?
もしも、あの乞食が言っていた薬を飲んで、
この鏡に何もうつらなかったら?
自分はどうすればいい?
自分に顔も体も、何もなかったら
いったいここにいる『自分』はなんなんだ?
もし、自分に『何もない』とわかってしまったら、
俺は『ここ』にいられるのだろうか?
期待と、不安が、背中をあわせて彼の頭を舞う。
求めることを止めることもできないし、
恐れることを拒むこともできない。
彼は鏡の前で、ひたすらに考えた。
在るのか無いのかもわからない、
その頭で、
とにかく考えた。
鏡に映るものは何もない。
それでもただただ鏡を見つめ続けた。
それから、何度目かの朝が来て、
彼はまた、あの通りを歩いていた。
先日とだいたい同じあたりで、あの乞食と出会った。
「お、きたね」
道端に座って寝込んでいるように見えたが、
彼が近づくと、目を開け、
薄ら笑いで見上げてきた。
「例の薬、取りに来たんだろ?」
と言って、
懐から、小さな瓶を取り出した。
透明なような、濁っていそうな、
不思議な色合いの液体が入っている。
「これだ。一瓶、飲むだけだ」
乞食が瓶をさしだす。
だが、
彼は受け取ろうとはしなかった。
「…いらないのか?」
彼は、乞食の言葉にうなずいた。
鏡の前で考えて、
ひたすら悩んで、
そこにいる、『自分』を見た。
鏡には映らないけれども、
鏡の前には確かに『自分』がいて、
考えて、悩んで、求めて、手を伸ばそうとする、
そんな『自分』がいる。
もし、本当に薬で鏡に姿が映っても、
それを『自分』だと信じることはできないだろう。
いままで鏡に映らないのが『自分』だったのだから。
ならば、
真の姿など、見ても何も変わりはしない。
悩み事が増えるだけ。
鏡にも、人の目にも映らず、
それでもここに立っている。
それが透明人間である自分の特徴であり、『私』なんだろう。
そう、思うと、
薬なんてものはどうでもよくなってしまった。
「そうか、どうでもいいか」
乞食が、つぶやき、
そして
天を仰いで、大声で笑った。
「はっ、こりゃ面白い!」
乞食は少し、ほんの少し、まじめな眼差しを見せる。
「気に入った。
教えてやろう。
俺は、ほんとは悪魔でな。
人が悩むとこ見るのが好きなわけよ。
でも見た目、こんなみすぼらしいじいさんだろ?
誰も信じやしねぇ。
べつに好きでこんな姿なわけじゃねぇんだ。
はじめっからこの姿なんだ。
悪魔なんだから、角も尻尾もあってもいいだろうに
俺にはなーんにもねぇわけよ。
…まぁ、悪魔なんて、俺も見たことねぇんだけどよ、俺以外。
腹がすかねぇから、人間とは違うんだけど、
でも自分でもよくわかんなくなるわけよ。
俺が、いったいなんなのか。
で、こいつをもらったのさ、この薬。
へんなキツネが持ってきたんだ。
そいつ、『ただのキツネに、薬のコトなんかわからん』
…とか言ってたな。とにかくへんなキツネだった。
で、もらって、飲んでみたんだ。
鏡の中にいるのは、ただのじいさんだったよ。
でも、俺が悪魔じゃないと知ることはできなかった。
そりゃそうだ、悪魔を見たことねぇからな。
つまんなくなってよ、
また、キツネのとこ行って、もらったのよ、薬、もう一瓶。
で、お前みたいのにちらつかせて、悩ませて、遊んでるのさ。
いい趣味だろ?悪魔らしくて」
乞食が喉の奥で笑う。
「そうだ、お前も、悩んでるやついたら薬の話してやれよ。
俺が退屈しないように、な。
もうしばらくはこのへんにいるからよ。
町ってのは、なかなか面白いところだからな。便利だし」
乞食は立ち上がり、
「じゃな、また遊ぼうぜ。
薬も、欲しくなったらまた来い」
そう言って、裏路地のほうへと姿を消した。
彼の姿が消えたのを見て、
また、通りを歩き出す。
このあたりに、帽子屋があったはず。
そろそろ衣替えの時期だ。
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