目次
→ 予兆
→ 胎動
→ 覚醒
自分に与えられた名前は、虹の意味を持つらしい。
一般的に虹は七色だと言われる。けれど実際は違う。7つの色にきっぱり別れてなんかいない。
赤から紫まで、無限の数の色が結び合って、混ざり合って、溶け合って、
そうしてそれは『虹』という名の色を作っている。
人々はこれを美しいという。
しかし本当にそうだろうか。
虹色とは、ただ何色にも成ることができないまま、いずれ空に溶けて消えていくだけの色なのではないだろうか。
どの色の名も付けられないから、『虹』の名を与えられ、放られ、そのままそこで揺蕩うている色のことではないだろうか。
それは本当に美しいのか。
いや、むしろ色として成り立っているのだろうか……
その名を冠した僕は、私は、俺は、己は―――ちゃんとここに、立っているのだろうか。
「あった!マルス!これですよ!」
ここの空によく似合う明るい声をあげて、シュルクは足を速めた。
マルスは自身のペースのままでその後を追う。やがてシュルクはしゃがみこみ、地面から何かを一掬いにした。
「これが?」
「そう」
「ただの砂にしか見えない」
シュルクが手に取った物、見た目はただの、どこにでも見られるような砂でしかなかった。
だがシュルクは、見よと言いたげにマルスに笑いかけると、その砂を、宙へと放ち、風と光の中に舞わせた。
マルスは思わず、感嘆の息を、砂と共に風に乗せる。
なんの変徹もなかったその砂は、陽光を受けると、キラキラと美しい煌めきを放った。
晴天を背景に、風に流れて行く、それはまるで、渡る草原の全てに降り注ぐ、星の祝福のようだった。
シュルクが『砂金のマボロシ』と呼んだのも、これなら頷ける。
「キレイでしょう?」
「本当だね……本当に、綺麗だ」
やがて砂が流れ去り、光も消える。辺りの風景が元の和やかな草原地帯へと戻って、二人も再び緩やかに歩き出した。
「豊かな所なんだね、ここは」
「巨神の膝から太ももにあたる所なんです」
「それで、脚と呼ばれるのか」
「えぇ。下の脛や、上の胸部と違って、太陽の光を広く浴びることができる土地なんですよ」
「なるほど……」
マルスは神の骸だという大地に思いを馳せる。
ここもまた、複雑な事情を抱えた世界だ。
人と機械との激しい闘いが繰り返されていると聞くが、この、晴れ渡る空と青々と茂る草の海の鮮やかさ、
そして駆ける風の爽やかさは、そんな争いの気配などまるで感じさせない。
広大な土地に広がる豊かな土壌に、生命の息吹が溢れているのを、マルスは五感で感じ取ることができた。
「ほら、あそこにはハミングプラムが」
「プラム?果物かい?」
「はい。歌いたくなる果実」
「えと……それは美味しいってこと?」
「おいしいですよ、とても」
シュルクは話しながら、楽しそうにあちらこちらへと目を向ける。
……シュルクがガウル平原を案内してくれるということだったはずなのだが、
どちらかと言えば、シュルクの散歩にマルスが付き合っているだけになっているような気がする。
「他にも、ここにはいろんな果物や野菜が……あっ!」
また何か見つけて、シュルクはそちらへ颯爽と駆け寄っていく。彼が拾い上げた物を、マルスは後ろから覗き込む。
それはどうやら歯車らしかった。
しかし奇妙な形に歪んでいる。丸い歯車がひしゃげてしまった、というわけでもなく、元々そういう形の歯車のようだ。
「……これは、何……?」
「なんでしょうねー」
いちおう答えは返ってくるものの、心ここに在らずといった様子。
ちらと横目をやれば、シュルクの目がこれ以上ない程に輝いているのがわかった。
「こういう部品も所々落ちてるんですよー」なんて言うのも、もはや独り言に近い。
いったいどこにどう使うものなのかさっぱりわからない謎の物体、これの何が彼を、いや、これのどこに彼が惹かれるのか、
マルスにはまるで理解できなかった。
「あ!あっちにも!」
さらに1つ見つけるや、パッと立ち上がって走り出す。
マルスを案内してたなんてこと、もうすっかり忘れたようだ。だがこれはこれで、マルスも楽しんでいた。
自分の世界でこんなにも愛しそうに語り、走り回るシュルクの姿は、見ていて飽きが来ない。マルスは思わず笑みを溢した。
その時、ふと、マルスは遠くに人影を見つける。
(あれは、ルフレ?)
風になびく草原の真ん中で、その影は一人、じっと佇んでいるようだった。
特に何をしている様子でもない。ただ立って、俯いている。
手に何か持っている。どうやら花のようだ。マルスは何故かその色に視線を奪われた。
鮮明な赤色。
滴り落ちる血にも、激情を孕む炎にも、妖艶な口紅にも、その色は見えた。
と、前を走っていたシュルクが足を止める。
「……」
「……?」
二人の間に、奇妙な間が生まれた。
だがマルスが名を呼ぶより先、シュルクが振り返って、遠くのルフレへ顔を向ける。
「すいませんマルス、ちょっと、いってきます」
シュルクはマルスにそう一言掛けると、ルフレの方へと駆けて行く。マルスも特に引き留めはしなかった。
ルフレはシュルクに気付くと、まるで夢から覚めた時のように、パッと顔を上げる。
二人がどんな言葉を交わしているのか、マルスまでは聞こえてこなかったが、
シュルクの表情や仕種から察するに、そう大層な話をしているわけではなさそうだった。
やがて、もう一人、クロムが現れ、ルフレへと歩み寄る。
シュルクは彼とも軽い挨拶を交わし、そうして、じきにこちらへと戻ってきた。
「お待たせしてすいません」
「何か、あったのかい?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど……」
マルスは聞きながら、目を彼の手元へ向ける。そこには花があった。真っ赤な一輪の花。
「ルフレに交換してもらいました」
「さっきの歯車と?」
「セリオスアネモネ。好きなんです、この花」
普段と変わらぬ笑顔のシュルクだが、話を仕舞い込もうとしていることに、マルスは気付いていた。
「そのために行ったわけじゃないんだろう?」
「え?」
「歯車と花、どちらの方が君にとって大事かくらい、僕も知っているよ」
穏やかな口調を意識しながら突きつけてやると、シュルクは苦笑いを浮かべながら頭をかく。
「この花が好きなのは、本当なんですけどね」
「また何か見たんだね?」
「どうしてそうだと?」
「君が隠すことなんて、自分のことか未来のことかのどちらかだ」
「……マルスには隠し事、できそうにないな」
観念したように、シュルクは長い息を吐いた。
「花が、落ちたんです」
そう言って、手元の花へと目を落とした。
「ルフレが、花を落とした?」
「そう、だと思います。とにかく、花が落ちるのが、視えました」
「……それで?」
「それだけ、です」
それだけ?マルスはつい疑ってしまうが、彼がまだ何か隠しているようには見えなかったし、隠す理由も見当たらない。
「変えるべきこととは思えない」
「そうなんですけど……」
シュルクは口元へと手をやって、
「なんだか、妙に気になってしまって」
神妙な面持ちで考え込む。
視た本人をここまで思い詰めさせるなんて、未来視とはずいぶん罪作りな能力だ。
「まぁ、結局、花は落ちずに君の手にあるし、特に何も起きていない」
「そう……ですね」
少なくとも、彼が視た未来は変わったらしい。
シュルクは小さく息をつきながら、顔を上げて、ルフレの居た方へと目を向ける。
すでに、ルフレの姿も、クロムの姿も、そこにはなかった。
「このまま、何もなければいいけど」
ぽつりと呟かれた言葉、耳に入らなかった振りで、マルスは別の方へと目を逸らす。草むらに咲く小さな花が目に入った。
「あぁ、それはサチべリア」
シュルクが元の調子で教えてくれる。
「見つけた人に、幸せが訪れるんだとか」
「意外に花も好きなんだね」
言われてシュルクは少し考えて、答えた。
「その花は、特に」
特に惹かれない、と。謎の歯車の時とはまるで正反対だ。
風が吹き抜けて、幸せの黄色い小花が青葉と共にそよりと揺れた。
それから、事が表面化するのにそう時間は掛からなかった。
シュルクの持つ流れを読む力、未来視を抜きにしても立派なものだ、マルスはぼんやりそう思ったりした。
「……これは、何をやってるんだい?」
「けんきゅーなの」
あっけらかんと答えるカービィに、マルスは呆れた様で視線を返す。
だがカービィがそんなもの気にする訳もない。
ニコニコと笑ったまま『けんきゅー』とやらの現場へ向き直る。
それは、マルスには『研究』というより『会議』に見えた。
―――いや、見てあげようと思った。
「えと、要は、よく本を読んでいるような気がする……と」
「あと、たまにビリビリする」
「……ビリビリする」
「ピリピリしてるとこは見たことないなー」
「ピリピリは、ない……」
あちらこちらから挙がる声を、リンクが要約して反復する。
そしてその頭の上で、ピカチュウが空になにやら書き記してゆく。
……『研究』と呼ぶには無理がある。これは、『お絵描き大会』、だ。
地平と空白、それ以外はまさに何も存在しない平面の世界、ピクトチャット。
その一角に、多くの参戦者たちが集い、そして思い思いに意見を交わしていた。
出された意見はリンクの口を経て、ピカチュウの手によって図式化されていく。
ピカチュウは背後の真っ白い空間に、どんどんと、思うがまま書いていっていた。
どういう仕組みかは全くわからない。だが確かにそこに、空に図画は現れている。
マルスは空に浮かぶものをじっと眺めた。
図だと思ってあげたいところ。
だが、やっぱり『落書き』という単語を頭から排除できない。
ピカチュウのせいじゃない。……まぁ、絵心はもうちょっと欲しいかもしれないけれど。
でもそれ以上に、浮かぶ図画の1つ1つが、自由すぎた。
無地の真白を背景に、たくさんの星が煌めいていた。
月も何個か煌めいている。太陽はピカリと閃いている。炎が光っている。稲妻が揺らいでいる。
本はパタパタ羽ばたいていて、剣がクルクル回っている。
他にもいろいろ、林檎のような果実、可憐な花、吹き抜ける風、睨みつける瞳、愛らしいハート……
そんな物たちの中心に据えられているのが、2体の人型だった。
黒く一筆書きにされたそのシルエットは、型抜きクッキーを思い起こさせた。
どちらも服の裾が長く描かれている。片方は髪が長くて結わかれている。
どうやらこれは、一対の男女の絵のようだ。
この男女の絵の周りを、星だの月だのたちは好き勝手に泳ぎ回っていて、
その様子が、マルスの目には、まるで居場所を見つけられず彷徨っているかのように映った。
見渡した限り、文字はどこにもなかった。
疑問符と感嘆符は文字と言えるかもしれないが、他にそれらしき記号は見当たらない。
未だに共通の文字を持たない自分たち、ポケモンに至っては文字そのものを使うのかも疑問だ。
そう考えると、ピカチュウに書記をさせるのはむしろ賢い選択なのかもしれない。
「吸い込まれそうになったことあるよ!」
「それじゃカービィだろ。あれは、吸い取られるっていうの」
小さな勇者の言い間違いを、大きな勇者が正している。
しかしそれは報われず、宙には新たにカービィの絵が浮かぶ。
(……よし)
帰ろう、そう決める。
だが遅かった。
「マルスはなんかないの?」
身を翻そうとしたマルスを縫い止めるように、ネスが言葉と視線で刺す。
察するに、彼はこちらの存在に気付いていて、声をかけるタイミングを伺っていたのだろう。
「あ、マルス、居たの?」
と、リンクにも声をかけられ、他の皆もこちらに顔を向けた。
もう逃げ道はない。
「……何の集まり?」
しらばっくれて、リンクに聞いてみる。
「ルフレについて、皆に聞いてる」
「こんなに人集めて?」
マルスはちらりと目を走らせた。
リンクの周りには、カービィやピカチュウの他、ネス、ソニック、ヨッシー、ディディー、メタナイト、むらびとの少年少女……
奥の方にはファルコンやルカリオも、とにかく大勢の参戦者が集まっていた。こっそりとルイージもいる。
「集めたわけじゃない。気付いたらこうなってたんだ」
リンクの捨てるような言い種に、マルスはむしろ感心する。
自ら出向かずとも、求めるものが集まって来ているわけだ。これは彼の立場と人徳があってこそのこと。素晴らしいことだ。
ただ、集まるだけで纏まらないのが珠に傷である。
「で?何かわかった?」
「わからないってことは、わかった」
案の定、だ。マルスは敬意と失意の両方を込めて、小さく溜め息をついた。
「ルフレの何が問題だと?」
「人によって、知ってることが全然違うんだ」
「それの何がいけないんだい?他人の印象なんて、受け手それぞれだろう?」
「そういうことじゃなくって……」
リンクがもどかしそうに唸った。
すると、
「皆、てんでバラバラなんだよ」
見かねたのか、ネスが口を挟む。
「リンク」
ネスは横に居た風の勇者のリンクへ話を振る。リンクは小さく頷いてこう言った。
「カッコいい兄ちゃんだなって、思ってたんだ。色んな魔法使えるし、すっごく頭いいし」
リンクはまっすぐこちらに向けていた視線を、ネスに移した。
「でもネスが、違うって」
「ボクは、とても優しい人だと思ってた」
何を思い出したか、ネスは柔らかな笑みで言葉を継ぐ。
「とても穏やかで、でもとても強い、頼れる人……そう思ってた」
「でね、リュカはこう言うんだ、『お母さんみたいな人』って」
再びリンクが声を上げ、それを口火に、端々からいろんな声が飛び交い始める。
「俺はとにかく変わった兄ちゃんだと思ってたぜ」
「オイラは元気なお姉さんだと思ってた。バナナくれたんだ」
「元気?静かで一緒にいてのんびりできる、ステキなお姉さんですよぉ」
「本が好きな方なんだな、とは思ってましたけど……」
「私の前では生き生きと話をしていたがなぁ。レースマシンにも乗ってみたいと」
「彼はハルバートにも興味を持ってくれているようだったぞ」
「あーそういや、うちでも呑気に見学してたな……変な女だ」
「変なって言わないの」
「でも変わったヤツだぞい。あやつと居るとどうも調子が狂うわ」
「それ、なんかわかるかも」
「なんか、よくわかんないんだよな、アイツ」
「でもカワイイ」
「カッコいいよ!」
徐々に賑わいが騒がしさへと変わって行く。
誰が何を話しているか分からなくなってきて、ようやくリンクが口を開いた。
「……わかっただろ?」
素直に頷くわけにはいかなかった。今ので分かるわけがない。
だが、1つだけ、わかったことはある。
「……男か女か、はっきりしないのか」
「やっぱりおかしいよな、さすがに」
リンクは険しい顔のまま、腕を組み直した。
別に、ルフレが男だろうが女だろうが、そのこと自体はどうでもいい。
ここには他にも色んな者がいる。
プププランドの住人やポケモンたちの性別をいまさら気になどしないし、ヨッシーやパックマンがどっちだって構わない、
更に言うなれば、フォックスたちが本当は女だとか言われたって、
受け入れることはできると思う。(それなりに驚くことにはなるだろうが)
どちらでもないならば、それはそれでいい。
どっちかわからないなら、それでもいい。
問題は、どちらでもある、ということだ。
「男だと言うヤツがいる。女だと言うヤツもいる。それって、マルスたちの世界でもおかしいことだろ?」
「……そう、だね」
どのように話をまとめたら良いのか、思案しているうちに、
「マルス、こう考えることはできるか」
ファルコンが助言をくれる。
「単純に、男性と女性、2人のルフレがいる」
それは一番簡単な解決案だった。
2人存在するのなら、男性だったり女性だったりしても問題はない。
それを誰も知らないのは、同時に見た者がいないということ。有り得ないことではない。
だが、
「でも、そうは思っていない、だろう?あなたも」
マルスが言いながら視線を投げると、ファルコンは口の端を上げた。
「私のはただの勘でしかない。マルス、君はなぜ、彼が『一人』だと?」
「……ルフレは、軍師だから」
マルスはあくまで理知的な姿勢を保って、言葉を選んだ。
「1つの軍に、軍師が複数存在するのは稀なことだ」
大国の軍なら宮中に何人もいるかもしれないが、彼の国は王子や王女が自ら戦地へ赴いているような国だ。
そういう訳ではないだろう。
「でも、マルスさん」
今度はヨッシーが声を上げる。
「ルキナさんもクロムさんもいるんだから、それぞれのお抱えってことはありません?」
ヨッシーの示した新たな可能性に、マルスは的確な答えを見つけることができず、しばし思案した。
「そういや、ルキナって、未来から来た人間なんだろ?」
と、ソニックがまた難しいことを言い出す。
「だったらルフレも、過去と未来で2人いることになるよな」
「それって、パラレルワールドのことですよね?」
ロックマンがさらによく解らぬ方へと話を持っていく。
ネスが興味を示し、ファルコンが口を出せば、あっという間に話に再び花が咲く。
「……」
マルスは喧騒を放り、今一度、自分の中のものに目を向けた。
正直なところ、マルスも、ルフレという人物をまるで掴めていないと感じている。
クロムやルキナと共にイーリス聖王の軍にいた軍師とは聞いているし、どうやら自分の後世の人間にあたるようなのだが、
それにしては、彼は何かと特異なことが多すぎるように思えた。
剣と魔法とを器用に使いこなしているし、服装も王室の物とは違うようだし……
いったい、何者なのだろうか。
そして、いったい……
「なぁ」
と、リンクの声で思考は妨げられる。
「マルスから見て、ルフレってどんな奴なんだ?」
「え……」
途端、言葉を詰まらせてしまった。
何か答えなければならないのだが、上手く取り繕うことができない。
リンクが怪訝な顔をする。ここまで流暢に話していただけに、不自然さは否めないなと、自分でも思ってしまう。
彼はそこまで人の心情や表情に気を向ける性格ではない。だが妙に勘のいいところがある。
マルスははじめて後悔した。
もっと、あらかじめ精査しておくべきだった。
自分の中の感情について。
ルフレという人物に対して、自分が抱いている感情について。
マルスが言葉を無理にでも引き出そうとし、リンクもまたそれを制そうかとした、その時だった。
「あのッ!」
あらぬ方から、凛とした声が発される。その場にいる皆が皆して、その声に振り向いた。
かくして注目の的となってしまったのは、新たにやってきたルキナだ。
「……あ、あのぉ」
図らずも皆の視線を一斉に浴びることとなってしまい、ルキナは恥ずかしそうに俯くと、今度は小さく声を発する。
「マルス様と……リンクさんに、お話が……」
顔を赤らめたまま、上目遣いにリンクを見やるルキナ。
ただならぬ雰囲気に、リンクは戸惑いながら彼女を見返すことしかできなかったが、
察しのいいピカチュウは2人を交互に見やったのち、ぴょこんとリンクの肩を伝って地面に降りた。
「すいませんっ!!」
皆の集まる場所から僅かに外れて対面した途端のこと、開口一番にルキナはこちらに向かって大げさな程に深く頭を下げた。
リンク、そしてマルスが目を瞬かせる。
「……リンク、何かした?」
「……何かしたかな、俺」
驚きすぎて冗談も通じてない。とにかく、彼に心当たりはなさそうだ。
「もしかして、ルフレのこと?」
マルスがまさに今、話題の人物となっている名を挙げると、ルキナは深くうなずいた。
「何かあったのかい?」
ルキナは心底申し訳なさそうに、再び謝った。
「何をどうお話すればいいのか……迷ってしまっていたのですが、
でもやっぱり、マルス様とリンクさんにはちゃんと話しておくべきだと思って」
リンクが眉をしかめる。
「マルスはわかるけど、なんで俺に?」
聞き返されると、ルキナは困ったように視線を落とす。
「今回の件、ルフレさん自身だけに関わることではないような、そんな気がしたものですから」
「……どういうこと?」
「ルフレが、じゃなくて、『ここ』という世界がおかしいのかもしれない、ってことだよ」
マルスはルキナの言葉を継ぐ。言いながらリンクへと視線を投げると、彼が息を呑むのがわかった。
「ルキナ、君から見ても『ここ』のルフレは何かおかしい、そう感じているんだね」
「……わかりません」
「わからない?」
リンクが聞き返すと、ルキナはより一層真剣な顔つきになった。
「リンクさん、マルス様、私……」
ためらいがちに、こう切り出す。
「私……もしかしたら、ルフレさんのことを忘れてしまったのかもしれない」
思いも寄らぬことを言われ、リンクとマルスは思わず顔を見合わせた。
「それ、どういうこと?」
「最近気付いたのですが……」
ルキナは苦々しい顔で、重たそうに口を動かした。
「私はルフレさんの姿をちゃんと覚えていないようなのです。
姿はおろか、男性だったのか、女性だったのか……全く、思い出せなくて……」
今にも震えそうな声を押さえながら、ルキナは自分の抱えている問題を的確に伝えてくる。
「私は確かにあの方のことを知っているはずなんです。
なのに……なのに、どうして、こんな単純なことを思い出せないのか……
どうしても、わからなくって……私……私は……」
「ルキナ」
今にも泣き出しそうな声の彼女をリンクが止めた。
肩にそっと手を置かれて、ルキナがその曇った顔を上げる。
「一旦、落ち着こう?」
向けられた潤んだ瞳を、リンクは真っ直ぐに捕らえて、
「だいじょうぶだよ」
まるで泣く子を慰める親のような優しい表情で、こう続ける。
「オカシイのはきっと、ルキナじゃなくてルフレの方だからさ、たぶん」
大真面目に根拠のないことをきっぱり言い切った。やっぱり詰めは適当だ。
「リンク、そういう適当な慰めを言わない」
マルスはため息がてら、一応はリンクを嗜めておく。
「ルキナ」
どうせ他に慰めになる言葉などリンクは持っていないだろうと見込んで、口を挟む。特に抗議はなかった。
「ルフレのこと、改めて一から教えてくれないか?」
マルスはできるだけゆっくりとルキナに言葉をかける。
「一度、君が何を知っていて、何を忘れているのか、整理した方がいい。
それに、ルフレという人物の来歴にも、何か手掛かりがあるかもしれない」
ルキナは小さくこくりと頷いた。
「ルフレさんは、お父様が率いる自警団に所属する、軍師です」
はっきりとした口調で、確かな事実のみを話し始める。
「とても頭の良い方で、戦略ゲームなんかがお好きです。あと読書もなさいます。
手先は器用な方で、あの方が作ったという模型が城にあったりします。でも料理の腕はいまいちで……」
「わかった、ルキナ、……わかった」
来歴、と言ったはずなのだが、聞き流されていまったらしい。
とりあえず、話の流れを彼女に任せるのは止めた方がよさそうだと、マルスは直感的に判断した。
代わってこちらから聞くことにする。
「先に聞いておくけれど、自警団ということは、正規軍ではないのかな?」
「はい。イーリス王国には軍がありません。
平和国家で在るために、軍を廃止し、最低限の守りのために自警団を組織しています」
「それを国王が自ら指揮しているのか」
「正確に言えば、お父様が王子の時から指揮を執っていて、聖王代理となった今でも続けているのです」
「ルフレは、王族じゃなさそうだよね」
「はい」
「なぜ、軍師に?」
「あの方はほとんど記憶がない状態で倒れていたそうで、それをお父様が助け、そのまま登用したそうです」
「記憶がなかった?」
「はい」
「まさか、本性も経歴もよくわからないまま、軍に所属させたの?」
「はい」
「……凄い人だな、君のお父様は」
マルスに言われると、ルキナは苦笑いを返した。ルキナもきっと同意見なのだろう。
行き倒れの人間を保護するまではともかく、普通なら軍に引き抜いたりはしない。
ふと思いついて、マルスはルキナに問いかけた。
「ルフレがもともと、性別のわからない人物だった、ということは?」
問われて、ルキナは少し頭を悩ませる。
「そんなはずは……いえ、おそらく、なかった、と思います」
「随分と自信がなさそうだね」
「さすがにそのような人は普通の人ではないと思うのです、私の世界では。
でもルフレさんは『普通の人』とは違うから、もしかしたら……」
ルキナは考え込み、言葉をみるみる濁し始めた。
彼女は非常に真面目で、そして礼儀を重んじる性格だ。少なくともマルスはそう捉えていた。
自分から抜け落ちてしまった記憶、未だ理解に苦しむ『ここ』という環境、そしてルフレという人物―――
多すぎる不安要素と懸命に格闘しながら、できるだけ正しいことを口にしようとしているルキナを前に、
マルスはそれ以上の問いを諦めるべきか、悩んだ。
「なぁ」
と、リンクが横から口を挟む。
「ルフレの記憶って、戻ってるのか?」
「え……と……」
ルキナは問われると、何故か戸惑った様子を見せる。
「そ、それは…………わかりません」
「なんで?」
「ここに来てから、そんな話、してませんから……」
「でも気になってるんじゃないの?」
「聞きづらいじゃないですか、そういうことって。いまさら、という気もしますし……」
「じゃ、今から聞きに行こう」
リンクの唐突すぎる提案に、ルキナの肩が大きく跳ねた。
「なっ!な、なんでそうなるんですか!?」
「だって、聞かないとわかんないだろ?他に知ってるヤツもいなさそうだし」
「だ、だったらせめて、お父様に!」
「クロム、いつもルフレと一緒じゃん。変わんないよ」
ルキナの抗議も、リンクは涼しい顔で軽くかわしてしまう。
「……リンク」
「何?」
早々に手札を無くしたルキナに変わって、
「めんどくさくなった?」
マルスが端的に突きつけると、
「なったよ」
リンクは己の怠惰をいともあっさり認めた。だが、
「けどさ、他にできることがあるか?」
それでも己の意見を曲げやしない。
「傍から見聞きしてても分かんないんだから、あとは会って話してみるしかないじゃん」
「リンク、僕には今回の件、そんなに簡単な話だとはどうしても思えない」
「簡単だなんて思ってない。でも、だからって、ややこしく考えても仕方ないだろ」
「ある程度、理屈は考えてから動くべきだ」
「考えたって、わかんないもんはわかんないし」
「だから、そんな単純な話じゃ……」
どうにかリンクを納得させんとマルスは言葉を紡ぎだすが、
「……何を、そんなに怖がってるんだ?」
唐突に、低い声が空間を割った。リンクではない。
「え……」
その問いはあまりにも突然すぎて、マルスは思わず、出すべき全ての言葉を喉に支えさせてしまった。
「……アイク、居たの?」
色々と驚きすぎて、それだけを返すのでやっとだった。
「居たよ、ずっと」
口も瞼も重そうな様子のアイクに代わって、リンクが答える。
「俺が来た時から、ずっとそこで寝てたよ、こいつ」
リンクはさらりと言った。その言葉を肯定するかのように、アイクは大きくあくびをした。
まさか、こんなに賑やかなところで眠っている者がいるとは思いもしなかった。
だが元々この場所は乱闘さえなければ真に無音となる場所だ。
マルスにとって、その無音は安眠を誘うものではないのだが、人によっては良き仮眠どころとなるのかもわからない。
特に彼、アイクのように、床を選ばぬ者はこういう所も好むのかもしれない。
「さっきから聞いていたが」
アイクは、寝起きの頭を掻きながら、普段にも増して硬い声色で問いかけてくる。
「マルス、あんた、いったい何をそんなに恐れてるんだ?」
「……恐れている?」
何を?そう思った。
恐れを抱くべき対象なんて、どこにもないじゃないか。いったい何を、彼は言っているのだろうか。
聞き返せと理性が叫ぶ。だが、その叫びは言葉として口から出て行きはしない。
既に、答えは自分の中にあった。
そうだ。僕は恐れている。怖いんだ、ルフレが。
……なぜ?
ルフレを恐れる理由なんて、何処にもありやしない。何処にもないはずだ。
なのに、なぜ、自分の感情はこんなにもすんなりと、アイクの言葉を受け入れてしまっているのだろうか?
全く、わけがわからなかった。
「お前もだ、ルキナ」
アイクに声で射られると、ルキナの喉からは短い息が漏れた。
「お前も、何をそんなに恐れている」
「そ、それは……」
「うじうじと自分の中だけで燻らせてたって、何の解決にもならんだろう」
容赦ない追及に、彼女が奥歯を軋ませたのがわかった。それでもアイクの手は緩まない。
「気になってるんなら、さっさとルフレに聞くべきを聞けば……」
「できませんっ!!」
堪らず、ルキナは叫んだ。
「できません、そんなこと」
絞り出すようにして、溜め込んでしまっていた感情を吐き出し始める。
「アイクさんの仰るとおりです。私、怖いんです。怖くて、怖くて……もう何を信じたらいいか、わからないんです」
「ルキナ、何がそんなに、怖いんだ?」
「……何もかも、全てが、怖い」
リンクが聞いて、ルキナが答えた。
「何も信じられなくて、怖いんです。
ルフレさんも怖いし、自分も怖い……記憶も、感情も、何が正しくて、何が正しくないのか、わからない……」
ルキナは両の手で、自身の顔を覆った。もう言葉は留まることを知らない。
「本当は、信じたいんです、ルフレさんのこと。でも出来ない。このままじゃ、私……私、また、ルフレさんを……」
『また』?
いったい、何があったのだろうか。
「もうあんな想い、したくない……もう、二度と」
「ルキナ」
と、アイクがルキナの告白を切った。ルキナが身を強張らせた。
「ルキナ、お前とルフレに何があったのか、俺は知らん」
言い放たれたその言葉は、一見、冷たく突き放しているようにも聞こえる。
だが、アイクはアイクなりの温度を以って、ちゃんとルキナに語りかける。
「俺たちが教えてやれるのは、この世界で何が起こっているのか、そこまでだ」
ルキナがゆっくりと顔を上げた。アイクの、氷の壁の奥に灯された炎のような瞳が、光を失ったルキナの瞳と交錯する。
「その先はお前とあいつの問題だ。お前たち自身で解決するしかない」
断じられて、ルキナは一度目を閉じ、アイクの言葉をしかと噛みしめる。
そうして次に開いた時には、その目に彼女本来の、しかと未来を見定める光が戻っていた。
「……ちゃんと、話せるな、あいつと」
「はい」
小さく、だがしっかりと発せられた返事に、アイクもやっと、表情を和らげた。
「とか言ってさ」
と、リンクが割って入る。
「お前も別に解決策持ってるわけじゃないんだろ」
「持っているわけがない」
アイクは堂々とリンクに言い張った。
「さっきまで寝てたしな」
「ったく……」
リンクは呆れながら、頭をかいた。
「まぁいいや。マルス、俺、ルフレのところ行くからな」
投げやりに言いながら歩き出そうとするので、
「待って」
マルスはそれを引き留める。
「なんだよ、まだ何かあんの?」
「ある」
迷いなくそう返すと、リンクは面倒そうに顔をしかめつつ、一応はこちらを向いた。
「何があるって?」
「さっきも言ったように、やっぱり僕にはそんな単純な話とは思えない」
「じゃあどうするってんだよ」
「君は、マスターの所へ行け」
リンクに伝えると、彼は心底嫌そうな顔を見せた。
「えぇーーっ!ヤだよ、自分からあのヒトの所行くなんて……」
「ここでの不具合はマスターが直してる。
直ってないということは、気付いてないか、不具合でないかのどちらかだろう?報告も兼ねて、君が行くべきだ」
「ヤダ」
「いい歳して駄々を捏ねるな」
「ヤなもんはヤダ」
「なんで」
「怖いもん」
包みもせずに言ってのける彼の真っ直ぐな目を、マルスは無言で睨み返してやった。
「そ、そんなに怖い方ですか?マスターハンドって」
「……怖くはないが……まぁ、俺も話したいとは思わんな」
ルキナが潜めた声に、アイクが低く答える。
「マルスが行けばいいじゃん!マスターの相手、お手の物だろ!?」
「却下」
短くきっぱりと釘を刺してやる。リンクは肩を落として不満げに溜息をついた。
彼の事だ、その必要性には気付いているのだろう。ただ見て見ぬふりをしているだけ。
尚もリンクは最後の抵抗を試みる。
「けどさ、やっぱり、なんて言うの?現状把握?そんな感じののためにも、ルフレには会わないとじゃ」
「僕が行く」
決意をもって、マルスは断言する。リンクが少しは驚いた様子を見せた。
「ルフレには、僕が会いに行く」
マルスはリンクに、そして自分にも向かって、繰り返した。
「かまわないね?ルキナ」
「!は、はい……もちろん」
ルキナも驚きに目を見開いたままで、マルスに答えた。
アイクは僅かに眉を動かすも、何も言は持たなかった。異論はないらしい。
「ルキナ、1つ、聞いても良いかい?」
「なんでしょうか?」
「さっき、ルフレは普通の人ではない、と言ったね」
「あ……はい」
「どういう意味なのかな?」
いつになく直接的な問い、ルキナの真っ直ぐな瞳が影を帯びた。
戸惑いの表情と共に、視線が低く落とされる。
「……彼の素性に関わること?」
さらに踏み込む。ルキナは項垂れるばかりで、何も言おうとしない。だが、無言こそが問いの答えでもあった。
「申し訳ありません、マルス様」
こちらの意を介してか、ルキナは謝罪を口にした。
「隠し立てするわけではないのですが……私に、あの方の秘密を話す資格があるとは、とても思えません」
ルキナはそう言って、口を閉ざした。
充分だった。元より期待はしていない。ルフレが何か重大な秘密を持っていると知れただけでも、収穫だ。
「ありがとう、ルキナ」
「っ!いえ!私は……何も」
礼を言われる意味がわからなかったか、慌てた様子で取り繕おうとするので、
マルスはそっと彼女に笑いかけた。目が合って、ルキナは息を詰め、頬を染めた。
怖れの正体は未だ掴めていない。
だがアイクに言われたことで、自分の中でわだかまっていた感情は『恐怖』という名前を得て、
すっかり心の片隅に腰を据えたらしかった。
自分は、ルフレを、恐れている。間違いない。
確かめれば確かめるほどに、それはしっかりと自分の感情として身に染みて行って、そして、柔らかく薄れていく。
消えたわけではない。馴染んだだけ。
消し去るには、きちんと向き合わなければならない。
自分と。ルフレと。
「じゃ、アイク、あとはよろしく」
「……」
マルスは一方的にそう言い放って、ステージの際へ向かって歩み始めた。リンクも観念したらしく、その後に続く。
アイクから返事はない。勝手に了承したと受け止めておくのが吉だろう。
「あとって……?」
ルキナの疑問に、アイクは視線で答えを示す。背後へと向けられた目の先を、ルキナも見やる。
「……」
そこには『お絵かき大会』のなれの果ての光景が広がっていた。
ピカチュウが統率を放棄した結果、止め処なく増えた『落書き』たち、
まだまだ増やせると意気込む輩、
喚きながら先を争うように描き合うお子様たち、
いつの間にか参戦して場を掻き乱している大魔王殿……
賢く素早い大人な輩は既に姿を消している。おかげで歯止めをかける者も存在せず、空間は混沌に向かうばかり。
あまりの惨状に、ルキナは言葉を失って立ち尽くす。
隣のアイクは同じ方を向いたまま、
こっそり帰ろうとしているソニックの首根っこを捕まえ、そしてネスとリンクをその目で射とめた。
僕にとって、『ルフレ』という人物は、『謎』の一言に尽きる人物だった。
ルフレは、僕の前では常にフードを深く被っていて、その顔を隠し、その思考を隠す。
それが当然だと思っていた。何故だかなんて考えたこともなかった。ルフレとはそういう人物なのだと思っていたから。
いつのまにか、僕は勝手にそう決めつけて、自分自身の目できちんと見ようだなんて考えもしていなかったのだ。
ルフレに対してだけではない。僕は、僕自身からも目を反らし続けていた。
目に映るルフレの姿、耳に入るルフレの声、想い描くルフレの内面、ルフレの頭の中、
そして、それらに触れようとすると奇妙なほどに畏縮する、僕の感情―――
見ているつもりで、まったく見ていなかった。
不誠実だった。
自分とルフレ、双方に対して、僕は不誠実だった。
遂にそのことに気付いてしまって、僕はその不誠実をそのままにしておくわけにいかなくなってしまった。
気付かなければよかっただろうか。
これまでも、これからも、ずっと、目を閉じて、見ようとしないで、気付かないでいればよかったのか。
そんなわけはない。
不誠実を不誠実のまま放っておく、それこそが、真の『不誠実』だ。
僕はきっと臆病者だ。そして内向的で、退廃的。少なくともルフレの前ではそうだった。
僕の中に密かに宿った恐怖と言う名の感情、その芽がそうさせていた。
このまま放っておいたら、それはじわりじわりと根を伸ばして、そして、立派な宿り木となる。
僕から見えないところに生えて、僕を蝕む大樹となる。種を蒔いたのは一体誰なのか、何なのか。
とにかく僕はもう『不誠実』でいるのは止めようと思う。その言葉は『僕』にはふさわしくない。
……誰にふさわしくないというのだろうか?
王子としての『僕』、統治者としての『僕』、参戦者としての『僕』、それとも……先輩として?
違う。
ふさわしいとか、ふさわしくないとか、そんな話じゃない。
嫌なんだ。僕が、僕自身が、それを拒んでいるんだ。
僕は今から向き合いに行く。
これまでずっと目を背けていたモノに、正面から、真正面から、向き合いに行く。
「こんにちは」
第一に発された言葉は、何よりも普遍的な言葉であり、模範的な挨拶の言葉であった。
「マルス王、お会いできてよかった」
その黒い装束を求めてマルスが降り立った場所はグリーンヒルゾーン。
言葉のとおり、ルフレはマルスを待っていたらしい。
明るい空の下のなだらかな草原で、ルフレは1人で佇んでいた。
深紫のローブに身を包み、フードを目深に被っている、いつもの姿。
「貴方とは、ゆっくりお話をしなくてはならないと思っていました」
ローブの端々に施された金の紋様は陽に照らされ光り、その影が地の濃紫色を黒羽のごとく妖艶に見せている。
放たれる妖気は人物像の輪郭をぼやかし、霞ませている。
そして闇色に覆われた、顔。
「ここ最近の噂話、私も聞き及んでおります」
口元だけが僅かに白昼の元に晒されて、白々しく言葉を紡ぐ。
「私のことで皆を騒がせてしまっているとか」
発される言葉は夢の如く気怠く宙に浮かんだ。
「真に申し訳ありません」
明るい空の下で明瞭に響く声とは裏腹に、瞳は闇の中に沈まされたままだった。
向けられる視線はまるで、深く濃い霧の奥からこちらを狙う狩人の矢尻のように感じられた。
昏き闇にぼやけて溶け込み、姿を眩ます人影から、視線と言葉だけが、マルスに注がれている。
―――マルスは一度瞼を閉じ、視界を閉ざした。
惑わされてはいけない、と、己を強く律する。
いつもこうなのだ。
ルフレを前にすると、なぜか、その姿は正しく見えず、その声はくぐもって聞こえる。
疑心暗鬼を生ずという。己の中の『疑心』が、光を歪ませ、音を乱している。
そして『疑心』の源が『恐怖』だ。
己の中の不可解な『恐怖心』が、眼前の者を疑わせ、そして直視することを拒ませる。
「どうかなさいましたか?マルス王」
何の気もないはずの言葉にすら、棘の存在を感じた。
だがもう、耳を覆ってはいけない。
「……その呼び方はやめてくれないか」
マルスは自ら言葉を発し、自らその響きを確認する。
「僕はまだ王じゃないし、君たちの上に立つつもりもない」
言いながら、自身の息遣いにも耳を澄ませた。
大丈夫。変わりはない。
「ルフレ」
確かめるように、マルスはその名を呼んだ。
「僕は君と話をしに来たんだ」
アイクは言った。ちゃんと、話をしろと。
そしてルキナは答えた。
あんなに怯えて、あんなに苦しんで、それでも彼女は目を背けようとはしなかった。
「見ているだけ、聞いているだけでは、僕は正しく君を知ることができそうにない」
マルスはできるだけ丁寧に言葉を選んだ。
いつもの自分のままでいい。相手のペースに巻き込まれる必要はない。
「だから、きちんと話をしたいんだ」
シュルクは己の不安をちゃんと片付けた。リンクはとにかく真っ直ぐに事実を見つめようとしていた。
皆、ちゃんと向き合ってる。ちゃんと向き合おう。そう、決めたのだ。
「教えてくれないか」
マルスはゆっくりと瞼を開く。
「君がいったい、何者なのか」
マルスは覚悟を決め、その目に正しい光を受け入れようとした。
その時、
「何者に、見えますか」
ルフレが言い、刹那、その手が動いた。
感じ取ると同時に、マルスの身体も動いた。
その身を突き動かしたのは恐怖の感情だった。マルスはそれを自覚し、そして、全てを受け入れた。
「……」
「……」
一瞬にして2人の間に生じた緊迫を、風が優しく撫でていった。
風は、マルスの髪を揺らし、ルフレの髪を揺らす。
マルスの瞳はついにその姿をしかと捉えていた。もうその顔は何にも覆われてなどいない。
白く柔らかな頭髪に、鳶色の瞳を持った男性。それが、マルスが初めて己の瞳で捉えた彼の姿だった。
同時に目に入る、青銅の剣。
彼は剣をまっすぐに差し出していた。マルスの胸元に切っ先を向けて。
しかしその距離は遠い。マルスの胸を突くには、あと一歩は必要だ。
対して自分の剣は、神剣ファルシオンの切っ先は、ルフレの喉元を明確に指し示していた。
あとほんの少し突き出せば、剣は目の前の相手を貫くことができる。
―――ルフレにはどこまでわかっていたのだろうか。
剣を抜くところまで?
剣を向けられるところまで?
……おそらく、そこまでだ。
マルスは高ぶった鼓動を鎮めようとゆっくり呼吸をしながら、頭を働かせる。
彼は、斬られに来たのだ、自分に。そしてその目論見は外れた。マルスはすんでのところで、剣を止めてしまった。
恐怖に先導されて剣を抜き、恐怖を自覚することで、彼を斬る手前で己を制した。
「なぜ、踏み込まないのですか」
ルフレが静かな声で語りかけてくる。
その言葉を聞いてマルスは確信する。やはりルフレは、身を貫かれる覚悟で立っている。
「これを、待っていたというのか」
「はい」
ルフレは小さく答えた。
細められた目から、彼の固い決意が伝わってくる。
「どうして」
「私はここに居てはいけないからです」
ルフレは断然とした口ぶりでそう答えた。
「何者にもなれない私は、ここに居てはいけないのです」
手の内の剣が揺らぐことなく、マルスをじっと指し示している。
「貴方なら僕を消してくれる」
「ふざけるな」
思わず口をついて出た言葉は、重くて静かでありながら、激しく荒れていた。ルフレの眉も僅かに動いた。
言ってしまって、自分で思う。珍しいなと。
リンクやアイクの口の悪さがうつってしまっただろうか。
でも何か発しなくては気が済まなかった。湧き上がってきた感情は、それほどに熱を帯びていた。
マルスはふっと、湧き出るままに笑みを浮かべる。
「甘く見ないでもらおうか」
きっとひどい顔をしているんだろう、僕は。けれども取り繕おうだなんて思えもしない。
せめて口先だけは冷静を装おって、マルスはルフレに言った。
「偽りの殺意に脅かされて人を殺すほど、僕は臆病者じゃない」
「もちろんです、マルス様」
わかっています、と重ねたルフレの瞳が、微かに揺らぎを見せた。
それでも彼の剣は動かない。
「しかし、貴方はご存知のはずだ。僕のこの身が、いかに穢れているのかを」
『穢れ』
その響きは、マルスの中で『秘密』という言葉と共鳴した。
「僕は、ここに居てはいけないんです」
ルフレはそう繰り返した。その声は、未だに暗い影を纏っていた。
落ち着き払った彼の様子、そして想起させられた秘密の存在、ルフレの抱く昏くも揺るがない覚悟、
マルスの刹那に高ぶった胸の内も、次第に静まりを取り戻して行く。
「知らないよ、そんなこと」
緩やかに冷めていく熱源を心に感じながら、マルスは静かに言い放った。
「知りたいとも思わない」
もしかしたら、知らなければならないことなのかもしれない。
彼の抱える秘密は、自分と無関係の物ではないのかもしれない。
そう直感的に感じながらも、マルスはそれを知りたいとは思えなかった。
知るべきことであっても、こんな形で触れたくはないし、そもそも、誰がそんなこと必要だと決めたのかと、憤りすら感じる。
「僕が知りたいのは、そんなことじゃないんだよ、ルフレ」
二振りの剣は今にも触れ合って音を立てそうなのに、ついに互いを鳴らすことはなかった。
斬られて鳴いたのは、空の方だった。
速い鳥の影が空を割き、ごうと風切り音がその後を追う。見慣れた影、聞き馴れた音。
アーウィンだ。高き虚空を駆ける、傭兵たちの愛機。
見上げる間もなく、今度は風がひゅるりと鳴き声を上げ、そして、
次の瞬間には、迷いなき剣がマルスの眼前を薙ぐ。マルスは反射的に剣を引き、身を反らす。
振われたのはもちろん、ルフレの剣ではない。
空を割って降ってきたのは、リンクだった。
リンクは降り立つや否や左手の聖剣でマルスの腕を跳ね上げようとし、同時に、右手の盾でルフレを押し出す。
マルスは咄嗟に取った回避行動のおかげで、どうにか、剣を弾き飛ばされることは免れた。
攻防が行われたのはほんの一瞬のことで、再び空間は静寂に包まれる。
吹く風を感じながら、マルスは向けられた視線をただ見返した。いつもと変わりのない、まっすぐなリンクの目。
剣戟ほど激しくもないし、それほど堅さも感じない。
これといった感情を伝えてこない彼の目に、マルスはそれ以上、何も返すことはできなかった。
彼の盾の奥で、ルフレもまた何もできずにいるらしかった。
マルスは誰も動きそうにないのを見て取って、リンクに言う。
「君も僕に喧嘩を売りに来たのかい?」
「はぁ?」
リンクがあからさまに顔を歪めた。
「あんたに喧嘩売るほど、バカなことってないだろ」
その言い種に、マルスは思わず口元を緩めて、
「だそうだよ」
そのままルフレに言葉も視線も流した。
ルフレは返事もできずにただ息を詰まらせる。
マルスはちゃんとわかっていた。リンクのやることは大概、深い意味などない。そして大概、正しい。
「とりあえず収めろよ」
「はいはい」
マルスは重みのない返事をしながら、既に気迫も果てた自分の剣を鞘に収めた。
リンクも両の腕から力を抜いて、剣と盾とを背に戻す。
ルフレだけ、だらりと垂らした手の中で、剣の柄を放そうとしなかった。
放せずにいる、と言った方がいいかもしれない。
「それで?」
マルスはとりあえずリンクへと疑問を投げかける。
「なんで君がアーウィンから降りてくるんだい?」
「降りたんじゃない」
リンクは空いた手を頭と腰にそれぞれ当てると、
「落とされたんだ」
不満げに言った。
「しょうがないだろ?」
と、マルスの背後から新たな人物が歩み寄ってくる。
「アーウィンは戦闘機、人員輸送用じゃない、って、何度も言ってる」
「フォックス」
マルスが振り返ってその名を呼ぶと、フォックスは手で軽い挨拶を返した。
「アーウィンが何用だかなんて知らないけどさ……もうちょっとなんとかなんないの?」
「ならない。運んでやっただけ感謝しろよな」
「頼んだ覚えもないんだけど」
リンクたちのそんなやり取りを聞いているうちに、今度はルフレの横で地面が光を帯びた。
転移の光陣が現れ、クロムが姿を現す。
「ルフレ!」
現れるや否や、クロムはルフレへと駆け寄った。
「クロム……」
「こんなところにいたのか。心配したぞ」
「……ご、ごめん」
険しい顔でクロムに見下ろされて、ルフレは目も反らせないようだった。
いつの間に隠したのか、それとも消えてしまったのか、もうルフレの手に剣は握られていなかった。
「フォックス」
これ以上は人が増えそうにないのを確認して、マルスは再度、この場で一番頼れる者の名を呼ぶ。
「どうして君がここへ?」
「あぁ……、こいつが珍しくマスターの所へ行ったみたいだから、ちょっと気になってな」
フォックスは答えながら、隣で疲れた表情を浮かべているリンクを目で指した。
「物見気分で覗きに行ったんだが、まぁ思った通りのことになってたもんで、仕方なく拾ってきたんだ」
嘲るようなフォックスの言い様に、リンクはただ憮然とした顔で呻くだけに留まる。
「彼は?」
続けてマルスがクロムに目をやると、
「ついでに案内してやったんだ」
フォックスは、事も無げにそう言った。
「マルス、お前もルフレのことで騒いでるんだろ?」
「騒いでいるつもりはないけれど」
マルスは少々ひねた態度で言って見せるも、フォックスに一笑に付されてしまう。
割と本音を呟いたつもりだったのだが、
しかしこの年配のリーダー殿から見れば、リンクも自分も大した差はないのかもしれない。
「なぁ、いったい何が起こっていると言うんだ」
とうとうクロムが痺れを切らして尋ねてくる。
「最近何かとこいつが騒がれていると聞いている。それにお前自身も、なんだか様子がおかしい……」
言われて、ルフレは苦い顔でクロムから目を背けた。
「そういえばさ」
と、リンクが緊張感の欠片もない声で、クロムへと問う。
「クロム、あんた何とも思ってないのか?」
「何とも……思っていないが?」
「ルフレの姿、見る人によって違っちゃってるらしいんだけど」
「……」
「……」
いとも簡単に、やけにあっさりとした口調で、リンクはクロム、そしてルフレに言った。
……あぁ、言っちゃったな、とマルスは独りで憂いを覚える。
もっと慎重に、ゆっくりと、きちんと話すべきことだと思っていたのに。
リンクの口から突拍子もなく出てきた突拍子もない話、
理解どころか捉えることもできるはずがなく、2人はそろって唖然とリンクを見返すばかり。
「な、何の話、……なんだ?」
かろうじてクロムが聞き返すが、
「だから、こいつの姿、たまに変わっちゃうらしいんだって」
リンクは無味乾燥な言葉を繰り返した。
「……いやいや、そんなわけ」
「じゃあ聞くけど」
言って、リンクはちらりとこちらへ視線を投げてくる。半眼に閉じた目の放つ、じっとりとした視線。
文句はないよな?との声無き問いに、マルスは、もう好きにすればいいさと目を反らす。もはや止めたって何の意味もない。
リンクは目をクロムたちに戻し、そして尋ねた。
「ルフレって、男なの?女なの?」
「……」
「……」
突然聞かれて、2人は揃って目を瞬かせ、それから互いに顔を見やった。
まじまじと見つめ合った後に出てきたのは、
『え?』
どちらの口からも、ただその一音のみであった。茫然と口を開けたまま2人は互いに見合う。
どうやら、2人のどちらの中にもその答えは見当たらないらしい。
「ルフレは、ルフレだっ!」
「……クロム……適当なことを、適当に叫ばないでくれ……」
ようやく、ルフレが口を開く。
あからさまに動揺を露わにするクロムと比べれば、ルフレの方はまだ少しは落ち着いて見えた。
けれども、普段が普段なだけに、むしろ、クロム以上に当惑しているように思える。
そんな彼を見て、マルスはこっそり安堵した。
ルフレは自分に起こっていることをちゃんと把握しているわけではなかったのだ。
その事実は、先程自分たちの演じたものが所詮くだらない茶番でしかなかったことを、マルスに示していた。
「君自身も、忘れてしまっているみたいだね」
心の内はひとまず置いて、マルスはルフレに言葉をかける。
ルフレはもはや隠すことも忘れたようで、素直に顔を歪めて頭を抱えた。
「信じがたいことですが……そのようです」
「いったいどういうことなんだ??」
「リンク」
「うーん……と……なんだっけなぁ……」
フォックスに促され、リンクは難しい顔で言葉を探し始める。
「リンク、マスターから話、聞けたんだね」
ルフレの異変、やはりマスターハンドが何か知っていたらしい。
リンクを行かせたのは正解だった。
と、思ったのも束の間、
「聞けた、らしいんだが……」
フォックスの顔がリンク以上に難しくなっている。
何故かと思う間もなく、マルスにも、その理由がわかった。
「えっと……ここは、イメージの世界で……フィギュアがあって……だから……」
「待った」
非常に頼りのない言葉の運び様に、マルスはつい口を出した。
これは、フォックスが『拾ってきた』と揶揄するのも、充分に理解できる。
「リンク、そこからマスターに説明されてきたの?」
「だってあのヒトの話、ぜんっぜん意味わかんないんだもん」
マルスは思わず溜め息をついた。
まぁ確かに、世界の基本理念なんて、誰かが教えてくれるような話じゃない。
マルスも興味本意で手を出して、様々な人や物事から徐々に得ていった知識だ。
知らない者も多いだろうし、知らなくてもやっていける。
だけれども、さすがにリンクは知っているだろうと思っていたし、知っていてほしかった。
フォックスもやれやれと肩をすくめる。
「リンク、とりあえずルフレのことだけ話してやれ」
「えっと……ルフレは、イメージが定まりきってない、だっけ?」
「そう。しかもフィギュアが2つある」
「そうだっけ?」
「お前が言ったんだろうが」
咎めるような口ぶりで、フォックスがリンクに言う。
「フィギュアが、2つ?」
マルスは想定外の解を示されて、少し頭を捻った。
「あの……全く話が、わからないのですが」
ルフレがおずおずと、マルスへと問いかける。
リンクが知らないことを、彼が知っていなくても不思議はない。
「さすがにここが現世でないことはわかっているね?」
「はい……さすがに」
マルスはできるだけ噛み砕いて、手短な説明を試みる。
「ここには僕らの『本体』として生身の身体ではなく、『人形』 がある」
「……フィギュア」
「普通は1つだ。1人に1つ。けれど、たまにそうでない人がいる」
「そうなの?」
リンクがまるで知らない風に首を捻るので、
「ゼルダ姫がそうだろう?」
「そうなのっ!?」
一番大切な姫様の名を挙げてやった。声こそ上げたものの、彼もすぐに思い立ったようだ。
「あ、そっか……シークが『2つ目』、か」
「そういうこと」
完璧な例えでリンクを黙らせたことに満足しつつ、マルスはルフレへと目を戻す。
「普通は自分の意思で使い分けているはずなんだ」
「なのに、僕はそれが出来ていない」
さすが、賢い者は話も早い。
「ですが、なぜ変わるのでしょう?」
ルフレは口元に手をやりながら、冷静に言葉を紡ぐ。
「僕は、ゼルダ姫のように姿を変える方法なんて知りません」
「意図的に変えていないのならば、他者によって引き起こされていることになるね」
「見た人の思い込みで変わってるらしいぞ」
「へぇ……」
フォックスの言葉をうっかり素直に受け入れそうになって、
「え?」
慌ててマルスはフォックスの顔を見返した。
言った本人も、完全に理解できてはいないらしく、眉間にしわを寄せている。
かわりにリンクがルフレに向かって話を進める。
「ルフレ、記憶失くしてんだろ?」
「あ、はい、そうです」
「自分の姿忘れてるから、自分でどっちがホントかわからないし、皆もわかんない」
「……」
「だから、皆が勝手に見たいように見てる。そういうことらしいよ」
「わかりません」
ルフレはきっぱりとそう答えた。マルスもつい共に頷いてしまう。
わかるわけがない、そんな説明で。
フォックスが諦めを含んだ表情で息を吐いて、リンクの言を継いだ。
「例えば、ファルコは女だと思ってるみたいなんだ」
「それはどうして?」
「アイツはお前みたいな頭いいヤツが苦手でな。大方、知り合いの猫に似てるとでも思ったんだろう」
「ね、ネコ……」
思わずルフレが顔を竦める。
「安心しろ、彼女はきまぐれだが優秀な仕事人、ファルコも一目置いている女性だ」
フォックスが笑って付け加える。
猫に例えられては、複雑に思うのも仕方がない。フォックスはその点をよくわかってくれている。
マルスには、その『猫』に心当たりがあった。おそらく時折彼らの話題に上がる女性のことだろう。
個人で賞金稼ぎのようなことをしている、女性ながら、たくましい操縦手だと聞いている。
彼女の話になると、ファルコは大概『あの泥棒ネコ』と忌々しげに目を泳がせる。
「まぁそんな感じで、他の奴らもおそらく皆、
初見で受けた、いわゆる『第一印象』でお前の姿を決めてしまっているんだろう。無意識のうちにな」
「そんなこと……有り得るのですか?」
「有り得るね、ここなら」
マルスはフォックスに加担する。
「ここはイメージが強い力を持つ世界。個々の持つイメージは、強さに応じて具現化したり、他者に変化をもたらしたりする」
マルスは持っている知識に基づいて、自分なりの解を組み立てて、ルフレに伝えた。
「君は自分の姿のイメージを失ってしまっているから、他人のイメージの影響を簡単に受けてしまう。
そういうことなんだろ?」
「マルスがそう言うなら、そうなんじゃないの?」
「だから、お前が聞いてきたんだろうが」
リンクが投げやりなことを言うので、フォックスが僅かに声を荒げた。
理解する気など微塵も感じられない。
「他人の、イメージ」
対してルフレは、じっと考え込んで、耳にしたものを知識として呑み込むべく咀嚼する。
「他人持った印象、そして思い込み、それが、僕の姿を変化させる」
「そう。まだ推測の域は出ていないのだけれどもね」
ここまで理論を組み立てて、やっと自分でも得心がいった。
ルフレは己の意思で姿を隠していたわけではなかったのだ。
彼の姿を眩ませていたのは、マルス自身の中のイメージだったわけだ。
「で、リンク?」
「なに?」
まるで無関係のような位置で突っ立っているリンクに、マルスは水を向ける。
「対処法は?」
「タイショホウ?」
「直し方だよ」
「直し方……」
リンクは思い出そうと少し俯いて、
「ていうか、直す気なさそうだったぞ、マスター」
そう言った。
「『時間が解決するだろう』って、言ってた」
「まるで他人事だな」
これまで黙って聞いていたクロムが、不満そうに呟く。
「そのうち直るっていうんだから、それでいいんじゃないの?」
「よくないっ!」
楽観的にも聞こえるリンクの言葉に、クロムの声が少し荒くなる。
たしかに、いくら問題がないと言われても、普通の人間の感覚で見れば、正常とも言える状態ではない。
彼が不安に思うのも当然だと思った。
「このままじゃ……」
クロムが苦々しく目線を落とす。彼は真剣に悩んでいるようだった。
一国の王子にこれほどまで心配してもらえるとは、やはり、ルフレはただの軍師じゃな……
「このままじゃ、ルフレが『アヤシイ人』みたいじゃないかッ!」
……やっぱり、彼が変わり者なだけかもしれない。
「ここ、アヤシイ人ばっかりだから、大丈夫じゃん?」
「そ、そうなのか?」
「いやお願いクロム、納得しないで」
いともあっさり懐柔されそうになっているクロムに、ルフレは額を抑えながら抗議した。
いったいリンクの言う『怪しい人』に誰が含まれるのか、非常に気になるところである。
「まぁ、お前の言うことも、一理はあるな」
「フォックス?」
意外なところから賛同の声が上がり、マルスは思わず聞き返した。
するとフォックスは口角をふと引き上げて、こう言った。
「マルス、思い出してみろよ、俺の姿を初めて見た時のこと」
脳裏に過去の出会いの光景が過った。
たしかに『妙』と思ったことを思い出してしまうと、したり顔のフォックスに返す言葉が思いつかない。
そんなマルスの惑いを見取ると、フォックスはルフレへと向き直った。
「君たちにとってはまだ、俺も『アヤシイ狐』だろうからな」
「!そんなつもりは……」
取り繕うようにクロムが言うも、
その態度は、フォックスの姿を未だ受け入れきれていないことをありありと示してしまっていた。
「なるほど、僕もさしずめ『アヤシイ英雄王』といったところか」
敢えて茶化すように言ってみると、クロムは困った顔で言葉にならぬ息をついた。
「英雄王って言葉もなんかスゴイよなぁ」
他人事のようにリンクが呟くので、
「『アヤシイ勇者』ってのも面白いよ?」
言ってやると、リンクが顔をひきつらせる。
「そうだよなぁ……」
フォックスも同意の笑みを浮かべてくれた。
「俺が最初に『アヤシイ』と思ったの、リンクだったし」
「えっ!?そうなの?」
「お前じゃなくて、だけどな。でも見た目の他にも、剣とか、服とか……」
「服は好きで着てるんじゃないんだって!」
「でもその服に助けられてるんだろう?」
「っ!そ、それはそうだけど……」
クスッと、傍から笑いが漏れた。
言い合いを止めてそちらを見やると、ルフレが、はにかんだような笑みを見せていた。
「すいません」
こちらの視線を受けると、少し申し訳なさそうに、握った手で口元を隠す。
「皆さんの話を聞いていたら、自分が何に悩んでいたのか、わかんなくなってきちゃって」
目元を柔らかに緩ませたその表情は、それまでの繕ったような笑みと違って見えた。
「ここしばらく、自分がいったい何者なのか、わからなくなっていました」
ルフレはゆっくりと、落ち着いた口調で自身の内面を吐露していく。
「自分が、自分でなくなっていくように感じていたんです。
てっきり原因は自分の中にあると思っていたのですが、とんだ勘違いだったようですね」
「どうして言わなかった」
クロムがルフレの言葉を切った。するとルフレは少し目線を落とす。
「君を困らせたくなかった。君も、ルキナも」
口にしたルキナの名前が苦しげに響く。
「特にルキナにはもう、あんな思いは二度とさせたくなかった……けど、思い上がりだったみたいだ」
「ルフレ……」
寂しげにも聞こえるルフレの言葉に、クロムもそれ以上、掛ける言葉が見つけられないようだった。
「もうルキナ、ほぼ泣いてたけどな」
「な、なにッ!?」
ぼそっと呟いたリンクに、クロムは一転して大げさな声で振り向く。
「なんだ、泣かしたのか」
「俺じゃない。アイクだ、アイク」
フォックスはふーんと訝しげに目を細めた。
アイクと言われて悩ましげに呻るクロムに、マルスも何と言い足せば良いか分からない。
まぁ、最終的にはアイクだろうが、ここは、まだ泣いてないということにしておいてあげたらいいんではないかと思う。
かくいう自分は悩むルキナを慰めることすらできなかった。
そういう負い目もあって、ついアイクにもリンクにもそこは同情的になってしまう。
「全て僕が悪いんです」
ルフレが溜め息を吐きながら、その責を請け負った。
「ルキナにはちゃんと、後で謝ります」
再びしっかり顔を上げて、ルフレはそう言い、そして
「その前に皆さんにお伺いしたいのですが」
一通り、皆の顔を見回して尋ねた。
「ここはたしかに多様な人々がいます。
とはいえ、姿が定まらない者というのは、さすがに混乱を招く、というか、実際に招いてしまっているんですよね?」
「まぁ、そうなるな」
「皆さんにとって、迷惑な話ではありませんか?」
「迷惑……?」
フォックスが、最近忘れていたその言葉を反芻する。
「別に、お前が男だろうが女だろうがどうでもいいけどなぁ」
宙に目を泳がせて、フォックスは本音を晒す。
「今までも、あんまり気にしてなかったし」
「え、そうなのかい?」
マルスが思わず聞き返すと、フォックスは肩をすくめた。
「狐以外の生き物の性別に、あんまり興味がないもんでね」
彼の口から発される『キツネ』という言葉に、どこか自虐めいたものを感じた。
「たまに髪を短くするんだなぁ、くらいで」
「それはさすがに気付こうよ」
「髪型なんて簡単に変えられるもんだろ」
それはそうかもしれないが。まったく、彼は懐が深いのか、無頓着なだけなのか、よくわからないところがある。
だが考えてみれば、他の参戦者も、概ねフォックスと同程度にしか関心を持っていないことだろう。
事実さえわかってしまえば、興味こそ持っても、迷惑だなんて思う者はいないはずだ。
ただ、ほんの一握り、悪意を持たぬと言い切れない者がいることにはいる。
どちらかといえば、彼らに利用される可能性の方がマルスには心配だった。
クロムへ目をやれば、彼は険しい顔をしていた。彼もまた、マルスと同様の不安を抱えているに違いない。
マルスが思案しているうちに、
「迷惑だって言われたら、どうするつもりなんだ?」
リンクが珍しく重みのある響きで言葉を発する。
聞かれたルフレは真っ直ぐにリンクを見据え、己の考えを述べる。
「先程聞いたお話によれば、僕の姿は僕自身と、相対した他人、それぞれの持つ印象によって定められている。
であれば、その印象を操作することで、僕の姿は定めることができるはずです」
「できるの?」
「わかりません。ですが、僕は姿を決めなければならない、これは避けられないこと」
ルフレは正直に、はっきりと答えた。
「努力は惜しみません」
ルフレは、自身の覚悟を伝えると共に、
リンクからの言葉をこの世界の住人の総意として正面から受け取ろうとしているらしかった。
理解しがたい状況、意味の解らない世界を受け入れ、そこで歩んでいく覚悟を感じさせられた。
しかし、
「努力するのか?」
「え?」
突然、そうリンクに言われ、ルフレが躊躇する。
「自分の姿を決める。それって、努力するようなことか?」
「え……と……」
「っていうか、誰が決めなきゃいけないって決めたんだ?」
ルフレが答えに詰まった。
そうなのだ、彼は、たまに突拍子もないことを聞いてくるのだ。
だがその問いは核心を的確についている。余計な疑念も過剰な装飾もそこにはない。
「マルス」
「なんだい?」
「マスターは放っておいても問題ないって言った。これは信用できる話だよな?」
「……そうだね。理屈も立てられる」
こちらも嘘偽りない意見を伝える。
イメージは伝搬するものだ。皆で共有していけば、自然と定着していく。
もともと問題なく世界は動いていたし、本人も気付いていなかったくらいだ。
ルフレ自身とクロム、そしてルキナさえ納得できるなら、現状維持でも支障はないだろう。
もちろん、ルフレが言うことも間違ってはいない。自ら努めれば、己の力で姿を決めることも可能なはずである。
しかしマスターは『放っておく』ことを選び、リンクにその意思を伝えた。
マスターハンドが世界を捨て置くわけはない。その意図は、成り行きを自然に任せることにあると推測できた。
「マスターがいいって言うんだ、放っておけばいい」
「で、ですが……」
「もしお前がさっさと決めちゃいたいっていうなら、簡単だ、肩書でも付けりゃいい」
『肩書』という言葉に、些細な違和感を抱く。
「クロムにでも付けてもらえばいいさ、とびきり偉そうなやつをな」
俺みたいに?
彼の言い様から、マルスには、そんな隠れた思いが聞こえるように感じられた。
「誰にどう見られようと、お前がどう見られようとしても、結局、お前はお前、それ以上でも以下でもないんじゃないの?」
それは、誰よりも重い肩書に縛られて、それでいて誰よりも自由で在り続けている、そんな彼だからこそ言える言葉だった。
言い方はぶっきらぼうだし、聞きようによっては乱暴だけど、
飾り気のないその言葉は紛れもない純粋な真実を突いているように思えた。
「俺たちは、どんな相手だろうとただ戦うだけだし」
ただ、戦うだけ。
こうもあっさりと言われてしまうと、ルフレも反論の余地はない。
「リンク……」
「ん?」
「君……意外とちゃんと考えてるんだね」
素直に褒めたつもりなのだが、リンクに顔をしかめられてしまう。
「マルス、俺が普段何も考えてない奴だと思ってんだろ」
「違った?」
「間違っちゃないけど」
いまさら照れくさくなったか、リンクは目を反らせて頭に手をやった。
フォックスもふと笑う。
「じゃ、せっかく働き始めた頭、使いに行くか」
「え?」
気持ち悪いくらいニコニコと笑いながら、フォックスはリンクの腕をしかと掴んだ。
そのまま容赦なくリンクを引き摺って行こうとする。
マルスも思わず笑みを零して、
「そうだね、ちょっとお勉強しようね」
「えぇ!?」
フォックスの背を言葉で押した。
いい機会だ、彼にはもう少し世界の理やら仕組みやらについて知っておいてもらわないと困る。
彼が困らなくても、そのツケを自分たちが背負わされたらこっちが困る。
「昼寝して全部忘れてやろうと思ったのに!!」
「忘れんな。行くぞ」
「えぇぇ」
「また運んでやるから」
「ヤだよっ!もういいって!!」
無理やり引かれて数歩歩いたところで、ようやく諦めたらしく、
リンクは最後の抵抗でフォックスの手を振りほどくと、渋々といった風に彼と並んで歩き出した。
「ルフレ」
マルスが名を呼ぶと、置いて行かれたように呆けた顔で見送っていたルフレは、はっとした様子でこちらに向き直った。
「君は『自分がわからない』と言うけれど、今回の件で、僕には君の姿がはっきりと見えたよ」
「……どういう意味でしょうか」
何を勘ぐっているのか、ルフレが眉根をひそめるものだから、
「そのままの意味さ、ルフレ」
マルスはいつもの調子で微笑を浮かべた。ルフレの瞳をまっすぐに見て、言ってやる。
「君はとても強い人、そして誰よりも、仲間を、クロムとルキナを信じてる人」
ルフレはこちらを見返すばかりで、何も答えなかった。
これも自分の勝手な決めつけでしかないのだろう。
けれど、ちゃんとルフレという人物を真正面から見て、やっと見つけた姿。
それほど真実から遠いものでもないだろうと、信じることができた。
「じゃ、またね」
「マルス様っ!」
帰ろうと背を向けたところ、慌てた声で呼び止められて、マルスは肩越しにルフレへ目を向ける。
「あ、あの……貴方は、本当に何もご存じないのですか?」
「何を?」
「僕のこと、何も聞いてないのですか?」
マルスはあぁ、『秘密』の話かと心の内でそらんじる。
「ルキナは話そうとしなかったよ」
「……」
「よかったら今度、君から聞かせてくれ」
マルスはそう言って、ルフレにもう一度微笑んで見せる。
彼が何も言えずにいるうちに、マルスは踵を返し、フォックスたちを追う。
去っていく背中を、ルフレはじっと見送り、そして、深々と頭を垂れた。
随分と長いこと下げていた頭を、ようやく上げると、
「すまない」
急に後ろでクロムが謝ったりなんかするので、ルフレは驚いてそちらを振り向いた。
クロムは沈んだ顔で、こう続ける。
「何もしてやれなかったな」
悔いるように呟くので、ルフレは笑って否定する。
「何を言ってるんだ、クロム」
「だが」
「僕がここに居られるのは、君のおかげだ」
クロムは言葉を呑んで、顔を上げた。どういうことだ、と目が尋ねている。
ルフレはその目に正直に答えた。
「マルス様たちの話を聞いて、やっとわかったよ。僕が自分の姿を見失った状態でも、
どうにか立って、戦っていられた、その理由」
いろんな人と、いろんな場所、目まぐるしく変わる環境の中で、失ってしまいそうになっていた自分。
けれど、彼が隣にいてくれると、不思議と気持ちは落ち着いて、自分が、自分でいられるように思えた。
「たぶん、君が、君の持つ『ルフレ』のイメージが、僕を僕として引き留めていてくれたんだ」
先程の話、不可解な点はまだまだたくさんある。
特にクロムとルキナ、彼らからも『ルフレ』という人物に関する記憶が不自然に欠けている、その因果はまるでわからない。
けれどもクロムはそんな事実、まったくもって気付いていなかった。
彼は僕を、微塵も疑ったりしなかった。
ルフレにはその愚直なまでの彼の信頼が、嬉しくて、たまらなかった。
それと同時に、自責の念が己を襲う。
「僕の方こそ、ごめん」
今度はクロムが目を丸めて、こちらに顔を向ける。
「僕は……君を裏切ろうとした」
自分の姿を見つけられないと悟ってしまった時、自分は、自ら消えることを決意してしまった。
そんなこと、クロムが、ルキナが、望んでいるわけがないのに。
彼らは決まってこういうに違いない。「心配するな」と。笑ってそう言う。
無償の優しさ、それに甘えてしまいそうになる。
―――耐えられそうになかった。
逃げようとした。それが最上の解だと決めつけて、黙って逃げ出そうとした。
けれども今思えば、それはクロムの信頼を裏切ることに他ならない行為だった。
クロムを裏切り、ルキナを傷つけようとしていたのだ、僕は。
「そんなこと、あるわけないだろう」
ルフレは一瞬、耳を疑ってしまった。
クロムの言葉が、あまりにも端的で、あまりにも明快で。
落とした視線を再び上げて、クロムを見やる。彼は惑いの欠片も見せず、腕を組んで胸を張って、堂々と空を見詰めていた。
「お前が俺を裏切るわけがない」
なんて愚かなんだろう。心底そう思った。
そんなんじゃいけない。一国の王として、一軍の将として、そんなんじゃいけない。
軍師としてはそう思う。
けれども、これが彼なのだとも知っていた。彼は誰よりも愚かで、誰よりも強い。
クロムはクロムのままでいて欲しいと思ってしまって、よりいっそう、守りたい、いや、守らねば、そう思うのである。
「あぁ、そうだ」
そんなクロムが、ふと思い出したように懐から何かを取り出す。
見せられて、思わず声が漏れた。
「返しておく」
それは歯車だった。青い草地の広がる平原でシュルクから渡された、奇妙な歯車。
シュルクには悪いが、手元にないことすら、気づいてなかった。
「人にもらった物を落とすなんて、らしくない」
「そうだね……でも、どうしても好きになれなくて」
「たしかに、何度見ても、ヘンな物だな」
クロムは手のひらに乗せたそれを、今一度訝るように眺める。
「人に贈るものとしてどうかとは、俺も思う」
「でもきっとシュルクは欲しがるよ」
「変わり者だな」
「はは、そうかもね」
互いに笑い合いながら、ルフレは歯車を受け取って、クロムと同じく、手のひらに乗せてそれを眺めた。
奇妙で、いびつで、無機質、可愛いげもない歯車。何に使われている部品なのか、まるでわからない。
ルフレはこれを貰ったときのことを思い起こす。
風に吹かれて草木が揺れる平原で、たしか花を眺めていたのだった。
真っ赤で、美しくて、毒々しい、存在感に溢れた一輪の花。今でも鮮明にその色を思い出せる。
あの花のようになりたかった。
誰の目にも分かる名前の色で、誰かには愛でられ、誰かには疎まれる、そんな存在に、なってしまいたかった。
なのに、花は歯車に変えられてしまった。
こんな、何のために存在するのかわからない、訳のわからない歯車に。
シュルクを恨んだものだ、あの時は。けれど、今ならこれも、何かに使われている大切な歯車なのだと思える。
どこかで何かを回している、大切な世界の一部。
「ねぇクロム」
呼び掛けると、クロムは柔らかな表情でなんだと聞き返す。
「僕の名前、虹の意味、だったよね?」
「あぁ、そうだったな」
クロムは答えながら、何をいきなりと言わんばかりに首を傾げた。
思えば、誰が何故自分にこの名を与えたのか、記憶のどこにもない。
あの父親の命名でないことだけは望むが、どちらにせよこの名前に込められた意味を知りたくなった。
知らなければ、拒むことも、受け入れることもできない。
「改めて自分のことを知るには、まずは名前からかな、って」
「虹の意味、か……」
クロムは抜けるような青空を見上げた。
「探してみるか?」
「え?」
「虹、ここなら色々な虹が見られそうじゃないか」
それもいいなと思う。虹を見ることを考えると、気分は明るくなる。
虹は美しい、そう思える自分に少し驚いた。
そしてさらに思いつく。
「作りたいな」
「ん?」
「見に行くのも良いけど、作ってみたい」
手元の魔道書、それとここに存在する様々な環境、イメージの力、それらを借りれば、
自分でも虹を作ることができるかもしれない。
「ルキナにも見せてあげられる」
虹が見られたら、ルキナも笑ってくれるだろうか。
ルキナと、共に笑えるだろうか。
「……とりあえず」
「そうだね……」
ルキナにどこから、何を、どのように話せばいいか。ルフレはクロムと共に思案する。
虹の作り方なんぞよりずっと難しそうだった。
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