※ 時リン×マルス……ありきの、マルス×トワリンというお話です。
目次
空は晴れ渡っていた。
最高に天気のいいヨッシーアイランドの原っぱを歩くマルスを、今は甘い香りが包んでいる。
(さすがに多いだろうな、これは)
マルスは自分の手元を見やった。
彼が抱えているのは、人の頭と同じくらいの大きさのタル。そこにはたっぷりの蜂蜜が入っている。
蓋はされていない。
目に入ってくる濃密な黄金色、そして自然の恵を感じさせる上品な香りは、マルスにその重みを忘れさせるほどの魅力を放っていた。
(あるところにはあるものだね)
ピーチ姫に頼まれた時にはどうしたものかと思ったが、言われたとおりにドンキーを尋ねれば、ちゃんと出てきた。
彼らコングたちが蜂蜜を食べるとは思わないが、料理くらいはするのかもしれない。
しかし、姫もこんなにもらってどうする気なのだろうか。今度はケーキか、クッキーか、アイスクリームか。
(どちらにせよ、次のお茶会は楽しみにしてよさそうだな)
ピーチ姫は礼儀を重んじる。この蜂蜜が、素晴らしい変化をもってマルスの前に出てくるのは確実と思えた。
「マルス?」
そこへ、前から人影が現れた。なんの変哲もない、緑の帽子に盾と剣。
リンクだった。いつもと変わらず、ヒマそうである。
彼は普通に歩いてきて、
「なに、それ?」
普通に疑問を投げかけた。
自然と歩み寄り、マルスも制さなかったので、リンクは上からタルを覗き込む。マルスもつられて手元に目を落とした。
ドロりとした黄金色が、微かに陽を受け輝いている。
魅惑的な光、そして香り。
「これ……」
前には無防備に突っ立って、中身を見続ける緑の勇者。樽の中の液面に、彼の顔が映り込んだ。陽光が跳ねて、きらりと蜜を光らせた。
何の変哲もない、日常の風景。
そうであるはずなのに、そこに渡るちょっとした沈黙は、マルスに、奇妙な空気を感じさせた。
マルスは、静かに右手を動かす。人差し指を、輝く液体の表面へと差し込む。
一掬い、そして、悟られる前に、その指を目の前の彼の唇へ重ねた。
「……」
そこまでされて、やっと、驚いたようにマルスの顔へと目をやるリンク。2人の視線が言葉なく交わった。
「垂れるよ」
「え……あ」
言われ、マルスの指先を滴る蜜に気が付いて、リンクは咄嗟にそれを舐めた。そのままリンクはマルスの指をくわえる。
細い指先にたっぷりつけられた蜜を、リンクは丁寧に舌で舐めとってゆく。
「……」
「……」
ふと、リンクはしぐさを止めてマルスを見やった。
見られたマルスは、自ら指を引いて、今度は自分でくわえ、残った指のベタつきを取り去る。
「なんだかわかった?」
「蜂蜜?」
「そう」
指の横側までしっかり舐め取ってしまって、マルスはようやく手を下ろした。
「ピーチ姫に頼まれて、ドンキーのところからもらってきたんだ」
「へぇ……」
再び蜂蜜に目を落とすリンク。マルスも蜜を眺める。甘い香り、濃厚な色……
―――彼も、同じことを考えているだろうか。
「じゃ、僕は行くね」
「あ……あぁ」
リンクの視線が戻るのを待たずにマルスは歩き出す。リンクは自然と道を開け、その後ろ姿を黙って見送った。
何も語らぬ彼の視線を受けながら、マルスは、こっそり右手の人差し指を、再びそっと唇にあてがった。
やっぱり、何かがおかしい。何かが、狂い始めている。
そう思いながらも、マルスはしばらくそのままでいるしかなかった。
指を、唇から外すことができなかった。
お届け物を終えて、ピーチ姫にちゃっかりと次のお茶会の約束も取り付けて、マルスは荒城内部の自分の部屋へと戻ってきた。
部屋は窓が閉められており、深い暗闇に包まれている。いつもどおりの自分の部屋。
自分の部屋、といっても、勝手に一部屋使っているだけである。誰かに与えられたわけでもなく、誰かに許しを得たわけでもない。
だが誰も何も言わなかった。
あまり知られていないというだけのことかもしれないが、知られた所で、何か言う者は誰もいなかった。
……そういえば、誰が知っているのだろうか、この部屋の事を。
とりあえずアイクには言ってある。
彼がこの世界に現れた時、この城も現れた。だから、彼の住む大陸の城なのかと、初めは思ったものだ。だがそういうわけではないらしい。
この城の内に勝手に私室をあつらえることについても、彼は何も言わなかった。
もののついでと、彼の分まで整えてみたのだが、未だに居るのは見たことがない。
今思えば、本当に無用な気遣いだった。彼は自立した人間だ。傭兵団を率いているだけのことはある。
どんな世界でだって、彼は自分の生活を自分自身の力で整えることができるのだ。だからこんな部屋を他人に用意される必要はない。
何もかもお膳立てされて生きてきた王子様などとは、分けが違う。
(まぁ、アイクは身も心も丈夫すぎる、だろうけど)
マルスはそんなことを考えながら、肩からマントを外した。慣れた目と薄い記憶を頼りに、外したマントを壁際の棚へと放る。
明かりをつけたいだなんて思わなかった。
照明がないわけではなかったが、狭い部屋だ、窓から漏れ入る僅かな光だけでも十分に事足りる。
それに何より、そんな気分にはなれなかった。
手さぐりで剣を鞘ごと外す。それを壁に立て掛けて置き、続けて鎧の留め金を外す。
解いた装具を無造作に棚の上へと下ろした。軽い金属の擦れる音が鳴る。
部屋の中央に置かれた簡易なベッドに歩み寄りながら、上着も脱いでしまって、適当に畳んでベッドの枕元へ置く。
ベッドに腰を掛け、ブーツを脱ぎ、そうして、その身を横たえた。硬めの寝床が体を揺らす。しばしその感覚に意識を委ねる。
やがて、全てが静まり返った。
目の前に広がる石の天井は冷たい闇に覆われている。まったく眠気は感じない。だが、心は『夜』を求めていた。
この世界で、自分の身体、すなわち人形が、滞りない活動のために睡眠を必要としていないことには、もうずいぶん前に気づいていた。
きっかけは、『彼』がいない世界に来たこと。
眠れない夜が何日も続いた。それなのに、マルスの体は乱闘になんの支障もきたさなかった。
ならば眠る必要もあるまい。必要ないものは切り捨てるが一番。
そう思っても、マルスは馴染む部屋に寝床を見つけ、こうして身を横たえるようにしていた。
「……」
じっと天井を眺めても、何も見えてこない。何も浮かんでは来ない。
―――今日も眠れそうにはない。
ため息交じりに身をよじり、マルスは部屋の隅へと目を移した。
そこには引き出しのついた小さな戸棚がある。引き出しには、1つのフィギュアが入っているはずだった。
小さな人形。
参戦者でも加勢者でもない。観戦者ですらない。動くことのないその人形、その姿を、その瞳を、マルスはじっと見詰め、思い出していた。
暗い夜の、帳の中で。
それを持ってきたのは、ルキナだった。
「マルス様、フィギュア、拾われたのですね」
マルスはその時、彼女と共に新しく現れた迷宮を探索して、最後にひたすら走らされて、多少辟易していたところであったが、
それでも彼女相手に不満を吐き出すのは大人げない、と自制した。
「ルキナ……そろそろ『様』はやめてくれと言っただろう?」
これだけに留めるのが精一杯だ。
「す、すいません……」
「敬語もいいよ」
「しかし、そういうわけには」
『マルス様』と呼ばれること自体には慣れてしまっているのだが、それは関係ありきのこと。
ほぼ他人と言っていいルキナに畏まった態度を取られるのは、なんだか背筋をなぞられているような気分で落ち着かなかった。
だが彼女から見れば、マルスという名は歴史に残ってしまった名前らしい。
つい言ってしまったものの、そこまで強く言うのも、それこそ大人げないことだろう。
「で、これがどうかしたのかい?」
マルスは話を反らして、手の内のフィギュアをルキナに示す。彼女の言うとおり、ついさっき、拾ったものだ。
「あ、はい、初めて見るもののようだったので」
「これは、ワンワンだよ」
「わんわん?ですか?」
「見たことないかい?」
「はい」
ルキナは興味津々といった様子で、ワンワンのフィギュアを覗き込む。
「なんだか、可愛いらしいですね」
「フィギュアだからね。実物はあまり近づかない方がいいよ」
「そうなんですか?こんなに可愛いのに…」
そんなに可愛いだろうか?多少疑問に思ったが、まぁ、感性の違いというものだろう。
あまり深く追究はせず、マルスはフィギュアを宙へ投げた。それはすぐに光屑となって、あっというまに消えてしまう。
ルキナは口を閉じることも忘れて、フィギュアの消えた空間に見入った。
「今の、なんですか?」
「え?」
何ですか、といわれても、なんのことだかわからない。マルスがどう返していいかわからないまま黙っていると、
「ワンワン、どこへ消えてしまったんですか?」
ルキナが、それはそれは不思議そうに、聞き直してくる。
「どこへって……マスターハンドの元、だよ?」
「マスターハンドの?」
「拾ったフィギュアは必要なければマスターへと返す。マスターは送られてきたフィギュアを戦士の戦いの記録として保存する……」
言いながら、疑問が芽生える。
「……ルキナ」
「は、はい?」
「もしかして、全部持ったままなのかい?」
ルキナは、気まずそうに息を詰めながら、小さく肯いた。どうやら自分が何か間違えているとは気付いたらしい。
「そのために、自分の部屋があるのかと」
「違う」
まったく違う。
たしかにマルスは、彼女に私室を設けることを勧め、その手伝いをした。だが、けしてそんなことに使うために勧めたわけではない。
「部屋がいっぱいになったらどうしようかと思っていたんです」
闘技場の片隅の、彼女の部屋を思い出す。あの部屋がフィギュアのコレクションルームと化しているのが、容易に想像できた。
「返し方を知らないにしても、要らない物は捨ててしまえばよかったのに」
「どのフィギュアも、見ていると興味深い、というか……誰かの大切な人なのかと思うと、なかなか捨てられなくて」
ルキナはそう言って、はにかんだような笑みをマルスに見せた。
「今日も、いろいろ新しい人たち、見つけたんです」
ルキナは腰のポーチをまさぐり、他の戦利品を取り出した。1つ2つと出てくる小さな人形。
そこで、視界に飛び込んできたある者の姿に、マルスはまず自分の目を疑った。
「どうかしましたか?」
刹那に顔色を変えたマルスに、ルキナが無邪気な声をかける。
「いや……」
マルスは懸命に表情を取り繕いながら、彼女の手の内の物を見やった。
ルキナが見せたフィギュア、1つはパラソルを持ったワドルディだ。これこそ可愛いと言われるにふさわしい。
だがマルスの目を釘付けたのはもう1つの方。ルキナがその視線に気づく。
「これは、リンクさん、ですよね?」
彼女の言うとおり、それはリンクの人形だった。だが、それはルキナの知る『リンク』ではない。
「これは時の勇者と呼ばれる人だよ」
マルスは平然を装いながら、ルキナに教えた。
「名前は同じリンクだけれど、『ここ』にいる彼じゃない」
「たしかに……リンクさんとは、雰囲気や顔立ちが全然違いますね」
そう、全然違う。彼と、彼、は。
「この方も、リンクさんと同じ、勇者なのですか?」
「あぁ。ハイラルの勇者は時代によって違う人物だ。けれど、トライフォースとマスターソード、そして服を受け継いでいる」
力と剣、証の服……彼らは、魂を受け継いでいる。
「……」
魂を継ぐ、定めを背負う、そして次へと託す……繰り返す……
「あの……マルス、さん?」
「!」
ルキナの声に、マルスは、自分が黙りこくってしまっていたことに気付かされた。
「どうかなさいました?」
「いや……」
言い淀んで、ふと思いつく。
「ルキナ」
「はい?」
「そのフィギュア、僕の拾ったものと交換してくれないか?」
「え?もちろん、かまいませんが…」
丸めた目でこちらを見つめるルキナに、マルスはまだ手元に残してあったフィギュアを見せた。
なんとなくではあるが、彼女の知り合いなのではないかと思っていた人のものだ。
「これは!」
思った通り、ルキナはその姿に反応した。
「リズおばさま!」
「……え?……おばさま??」
耳を疑い、改めて手のフィギュアを見てみる。どう見ても『おばさま』と呼ばれる年の女性ではないようだが、
「その方は、お父様の妹君なんです」
ルキナの言葉に合点がいった。なるほど、父親の妹ならば、年がいくつであろうと『おばさま』だ。
金の髪を高く二つに結った可憐な姿の少女の人型を、ルキナは懐かしそうに見詰めた。王族には見えぬ自然な出で立ち、溢れんばかりの穏やかな笑み。
この女性はきっと、周囲を照らす灯のような人なのだろう。ルキナにとっても、大切な人に違いない。
マルスはフィギュアをルキナへと渡した。ルキナも、手元のフィギュアをマルスへと譲る。
こうしてそれは、マルスの手元へとやってきた。
何を期待しているんだろう、僕は。
マルスは自分で自分に呆れ返り、それでもなお、戸棚から目を離すことができずにいた。
ルキナからもらったフィギュアはそこにある。動かぬ姿のままで、じっとそこに、身を潜めている。
―――本当に、愚かなことだ。
マルスは自身を諌めながら、胸に掛かった薄い肌掛けを、口元まで引き上げた。
フィギュアが身を潜めたりなんかするものか。僕が自分でそこにしまって、潜めさせているんだ。
そんなことより、今は休息をとるべきだ。
この身は疲れている。疲れてどこか狂い始めている。だから少し休まなければならない。
眠れないなんて思い込みで、本当はこの身体は睡眠を必要としているはずなんだ。普通の人間なんだから、疲れたら眠るべき。
もし、あそこに在るものがそれを阻害するものならば、未練など残さずにさっさと捨ててしまえばいいのだ。
ルキナにもそう薦めたではないか。さっさと捨ててしまえ、と、そう自分で言ったじゃないか。
暗闇と静寂に包まれた部屋の中で、マルスはじっと戸棚を見詰め続ける。
いくら時が経っても、何も起こりそうにはなかった。戸棚の中でも、マルスの中でも。
コト―――
変化は違うところから訪れた。
微かな足音が、マルスの鼓膜を揺らす。マルスは咄嗟に目を見開いた。だが、体を起こしたりまではしなかった。
音は、部屋の外からである。
――――――カラン――
誰かの気配がする。静けさに響く音、聞くに、誰かが乱闘をしに来た、という様ではなさそうだ。
徐々に足音は部屋へと近づいてくる。マルスには、誰の足音か判ったように思えた。ベッドに横たわったままでその主を待つ。
やがて、足音が止まった。
―――キィ―
戸が軋む音を上げて開かれる。風はなかった。
しばらくの沈黙、その後、再び木の擦れるような音で、扉は静かに閉められた。
コト、コト、と歩む靴底が石の床を叩く。遂に止む、と思えば、カランと乾いた金属音が部屋に響いて、消えた。
どうやら机の上に何かが置かれたようだ。さらに数歩、音はマルスの足元を通り過ぎ、窓へと歩み寄った。
ガタ
と、窓に据えられた重い木戸が開けられる。遠慮がちに、少しだけ。
外から光が一筋、部屋の中へと舞い込んだ。絹糸のような細さのそれが、室内の淀んだ空気と、白く澄んだ来訪者の横顔を照らした。
照らされた顔を見て、マルスは、ゆっくりと身を起こす。
来訪者はリンクだった。
彼はどうやら全くこちらに気付いていないらしい。窓の外を、目を細めて眺めている。
陰った金髪の間からスラリとした耳が伸び、その白きに水色のピアスが光っていた。
(……)
少し考えて、
「リンク」
マルスは、試しに呼びかけてみた。
そんなに大きな声を出したわけじゃない。驚くだろうなとは思っていたが、驚かそうと思っていたわけではない。
だが、とにかくリンクは驚いて、声にならぬ叫びを上げ、途端に身を転じてこちらへと向き直るのだった。
「あ……マ、マルス!?」
「そんなに驚くことかい?」
あまりのことに相当動揺したようで、リンクの顔は赤く見えた。
「まさか、誰か居るだなんて、思いもしなかったから」
言い訳だか場凌ぎだか、よくわからないが、別にどちらでも構わなかった。
どうでも、よかった。
マルスは落ち着いた仕草で、ベッドの縁から足を出し、自分のブーツに指を通す。
軽く裾だけ整え、立ち上がって、未だ動揺冷めやらぬリンクの方へと歩み寄る。上着は身に着けていないままだ。
「……マルス?」
窓際から、薄闇の中のこちらをまっすぐに見据える彼の表情は、驚きの他に怖れや怯えが混じっているように見えた。
背後に射す陽光のせいかもしれない。逃げるようなそぶりはない。
何気なく近づいて行って、そしてその目の前まで来てしまうと、マルスはちらと外の様子を見やった。
僅かに開いた窓から見える外の景色。
明るい。夜は遠そうだ。
それだけ確認して、マルスは腕を上げた。リンクの肩口から奥へと手を伸ばして、
ギィ
と、窓の木戸を押しつけた。木材特有の重く湿った音がして、窓が閉じられる。光が遮断される。また闇が部屋に戻ってくる。
―――夜が、戻ってくる。
再び闇に沈んだ部屋の中で、マルスはリンクを見つめた。リンクもこちらを見つめている。
リンクは少し上目遣いで、なんとも曖昧な感情を含んだ視線をこちらへ放っている。
彼の前で肌を晒すのは初めてだったかもしれない。その息遣いからは緊張の色も感じ取れる。彼の吐息が微かにマルスの肌に触れた。
今までにない距離だ。その気になれば今すぐにでも口づけが出来そうな程の距離。
彼もこの距離を、この夜の気を、その肌に感じ取っているだろうか。
「……」
「……」
奇妙な沈黙がしばし続いた。
リンクが何か言い出す、その前に
「ねぇ」
冷たい釘を打つように、マルスはリンクを制す。
リンクの肩がわずかに上がるのを、内心微笑ましくすら思いながら、マルスは垂らしていた左手をリンクの左手に当てがう。
「えっ……」
上げられる声も、目で黙らせて、マルスは慣れた手つきでリンクの小手を剥ぎ、手袋を取り去った。
露わになる、彼の肌。その甲に刻まれた、聖なる三角形。
薄い痣のようにも見える。久々に見たその聖痕、それは暗い闇の中で光を放つわけでもないのに、やけにはっきりと見えた。
「マルス……?」
リンクの戸惑いなど気にも留めず、マルスは彼の手を引き寄せた。強制はしない。あくまでも、丁寧に、優しく、礼を尽くすように。
振り払われても構わなかった。拒否されるのであれば、それでよかった。
だが、リンクはそういうことをしなかった。従順な彼の手は素直にマルスの口元までやってくる。
マルスはその手の甲に、そっと、口づけをした。
「リンク」
喉の奥から、潜めた声で語りかける。
「覚えてる?」
そう、話しながら、リンクの肌に唇を這わせる。絹のように滑らかな肌の上を、柔らかな唇がゆっくりと滑ってゆく。
「さっきの、蜂蜜の味」
人差し指の背をなぞってゆき、やがて艶やかな爪がマルスの下唇を撫でる。
マルスはそっと目を閉じて、躊躇いを見せずに、リンクの指先を口に含んだ。少し唇で玩んで、そして舌先を彼の指へと伸ばす。
僅かに触れただけで、その感触が、リンクの身体の火照った深部へと走ったのがわかった。
さらに少し、深く咥えなおして指の腹をくすぐってやると、その確信はなお深まった。
全てが伝わってくる。彼の動揺、焦燥、高揚……
何の前触れもなく、マルスはピタリと動きを止め、そしてスッとその口に咥えていたものを解放する。
はっ、と、やっとリンクが息をついた。
彼のそんな顔に目もくれず、マルスは身をひるがえしてベッドの向こうへと行き、枕元に掛かっている上着を取り、腕を通す。
時間も気も掛けないまま、床に置かれた鎧に手を伸ばした。
「リンク」
鎧の金具を留めながら、窓際のリンクへと話しかける。
「机に置いたのは?」
「え?……あ、あぁ」
あからさまな戸惑いを隠せないまま、答えは返ってくる。
「カンテラ、なんだけど、油、切らしちゃって」
「油?なんでもよければ、廊下の明りから取れるんじゃないかな」
手袋まで身に着け、マルスは剣を取る。カチャリと軽い音がした。傍の棚へ手をやり、マントを取る。
そうして装具の取り忘れがないよう辺りを見回して、最後に窓へと顔を向けた。
リンクは相変わらず突っ立っている。まるで、心をそこらへ放って遊ばせている、そんな顔つきで。
彼の視点も見定めぬうちに、マルスはさっさと部屋の出口へと手を掛けた。
手に剣を持ち、腕にはマントを引っ掛け、ドアノブをひねる。キィと、金属と木のしなる音。
「じゃあね」
もう一度、リンクを見やる。その顔に向かってにっこり笑いかけて見せ、そして
「おやすみ」
いらぬ余韻だけ残して、バタン、と、戸は閉じた。
―――マルスは、そのまましゃがみ込んでしまいたくなった。いっそ眠ってしまいたい。
けれど、そんなこと、できるはずもなく、マルスは虚ろな心を引きずるような足取りで、部屋を後にした。
マルスがこの世界で戦っていられるのは、リンクのお陰だといっても過言ではない。
少なくとも、マルス自身はそう思っていた。
マスターハンドの統べるこの世界、その創成時からの参戦者であったハイラルの勇者。『時の勇者』と、彼は呼ばれている。
マルスがこの世界に喚ばれた時、まだこの世界は狭く、剣を振って戦う、所謂『剣士』と呼べる者はリンクのみであった。
剣を持つ者と、そうでない者、その差は大きい。なぜなら、剣は捨てることができる。手放すことができる。手に掛けないことができる。
マルスは、何度も剣を捨てようと思った。
神剣を捨てるだなんて、元の世界であったなら絶対に考えはしないだろう。
だが、マルスにはどうしても、この世界でこの剣を振るう意義を、見出だすことが出来なかった。
しかし、世の理は絶対のもの。この世界で、戦わないという選択肢は始めから奪われていた。マスターハンドによって。
まるで呪いのようだった。それでもマルスは抗い続けた。抗えば抗うほど、マスターハンドの呪縛はマルスの身と心を締め付けていった。
繰り返される無意味な戦い。傷ついていく心に反して、剣は光を増していく。
戦で得た技術と経験、そして己に(或いは人間という生物に)秘められた闘争本能は、戦いを通して、いやがおうにも引き出され、研がれていく。
マルスは心を空にして剣を振るい続けるしかなく、そうして更に磨かれて光る剣技に、覚えるのは自己嫌悪。最低な悪循環だった。
剣に触れたくなかった。剣から離れたかった。剣を捨てたかった。
そんな中で、唯一、共に剣を握ってくれたのが、時の勇者のリンクだった。
彼の剣は美しかった。戦、世俗、人の血にまみれない、汚れなき剣。純粋な善のために振るわれる剣。
彼と剣を交えるうちに、マルスは徐々に、己のうちにも、彼の剣と同じ光を見つけていく。
そうして、この戦いもまた彼の剣と同じく、純粋で汚れのないものなのだと気付くことになる。
リンクが何かを教えたわけではない。
彼は何も教えてなんかくれなかった。ただ一緒にいてくれただけだ。
リンクは、戦いの全てを拒絶しようとするマルスを、肯定もしなかったし、否定もしなかった。
ただただ共にいて、共に剣を握ってくれた。そうして時間を共に過ごせば、自然と語り合うことも増え、
マルスは次第に、時の勇者という人物の人となりに興味を持つようになった。更に深く、彼の心の内にまで手を伸ばしていく。
彼はそれも、迎え入れず、斥けなかった。彼はマルスの全てを、あるがままに受け入れた。
2人は剣を通して、言葉を通して、そして夜を通して、互いの理解を深めていった。
彼はマルスにとって特別な人間となっていた。
親友か、恋人か、いっそ愛人といった方が清々しいかもしれない、けれどそんな呼び名に何の意味も感じない、
それほどに特別で、大切な人であった。
しかし、ある時を境に、彼は世界から姿を消すことになる。
新しい世界に残された剣士はマルスのみであった。
マルスが再び剣を拒絶することはなかった。その頃には、既にここの戦いを受け入れていたし、それに新しい剣士たちとの出会いもあった。
それまでに培ってきたものを彼らに伝えるのも、残された自分の役割であり、そのために剣は必要だった。
だから剣を捨て、戦いをやめる、そんなことは考えなかった。
その代わり、マルスは夜を失った。
誰かいないと眠れない、なんて、子供っぽいことを言うわけではない。ただ、マルスは見失ってしまったのである、夜の必要性を。
己の中から忽然と消え失せた夜。夜の喪失は、マルスにとって、孤独の象徴となった。
夜の時間を失うことで、必然的に時は増え、マルスはそれを剣へと注ぎ込むことになる。
自身の身体が眠りを必要としていないと気付いたのも、この頃だ。
かろうじて、人間の人間たる生活を保つための休息時間は確保するよう努めた。
(これは新たな剣士、主にアイクとリンク、彼らの自己管理能力の高さに感化されてのことだったように思う)
けれどもマルスは、本当の意味で『眠る』ことはなくなった。
反して剣の光は益々増していく。
日々、数多の参戦者たちに向かって閃く神剣の光。そこには、常に『孤独』が寄り添っていた。

「なぁ」
「ん?」
晴天の下、剣戟の音色が響く中で、ピットがアイクへと耳打ちをする。
「リンク、変じゃない?」
「……」
キンッと、甲高い音がまた1つ響く。
「いやリンクだけじゃなくて、マルスもだけど」
さらに2つ3つと続き、ピットの潜めた声をかき消さんとする。
ピットには好都合だ。こうしてアイクにだけ伝わるよう心を配っているのだから。
しかしアイクはその意図をいまいち計りきれない。
いったい誰が聞いているというのか。リンクとマルスは、あの様子、周りの事などろくに見えてはいないだろう。
もう2人、シュルクとルキナが傍にいるにはいる。だがこの2人もまた、他の事は目にも耳にも入れず、リンクとマルスの剣技に見入っていた。
アイクは一通り視線を投げ終わって、
「もしかして」
重々しく口を開く。
「『あいつらはいつも変だ』……という答えを期待してるか?」
「してない」
即座にピットが言葉をかぶせる。
「アイク!いつからそんな冗談言うようになった!?」
ピットが声を上げても、誰も相手にしやしない。
もちろんアイクもだ。ピットが叫ぶのはもっともだが、冗談を言ったつもりも彼にはない。
アイクは改めてリンクとマルスの双方に目をやった。ピットの言うとおり、2人はどちらも何かおかしい。
マルスは一見、いつもと変わらぬようにも見えた。
特に顔色は何も変わったところがない。余裕を持った、楽しそうにすら見える仄かな微笑を絶やしていない。いつものマルスの顔だ。
しかしいくら外面を取り繕おうと、太刀筋の表情は隠せない。
今日の彼の剣技は、彼の持ち味である慎重さと繊細さ、そのどちらもが欠如していた。細い剣がただただ鋭さだけを抱いて、荒く空を薙いでいる。
アイクには、まるで寄せる波全てを撥ね退ける、そのためだけに剣を振っているようにしか見えなかった。
そんなマルスに対し、リンクの方はというと、さっきから延々と、淡々と、剣のみを振っている。
道具を取り出す様子は微塵も見せなかった。
リンクが道具を使わない、そのこと自体はそれほど珍しいことでもない。
彼は精神的に追いつめられると、道具を使うという選択肢をかなぐり捨ててしまうことがある。
状況把握ができなくなって、武器を入れ替える余裕を失ってしまうのだ。これは彼の欠点であり、課題であった。
だが今日のは違う。余裕がないのは共通だが、それはマルスの剣技に圧されてのことではない。
リンクは、マルスに気を使っているのだ。
何処かおかしいマルスに対して、どんな手で迎え撃てばいいのかわからず、道具に手を掛けられないでいるのだ。
2人は決して手を抜いているわけではない。
自分たちの隣でこの乱闘を見ているシュルクとルキナ、2人には、目の前の試合は素晴らしい剣技の応酬に見えていることだろう。
実際、見劣りするような打合いではない。
それでもやはり、長らくあの2人を見てきたピットとアイクの目には、どうしても「おかしい」と見えてしまうのである。
アイクが大きく息をついた。
珍しくて、ピットが思わず目を丸くしてその顔を見やる。
声には出さずにアイクの顔色を伺うピットに、アイクも沈黙と行動で応えた。
地に置かれていたラグネルが浮き、アイクはその場で立ち上がる。
いきなり真横で剣の擦れる音がしたからか、シュルクがアイクへと顔を向けた。
「どうかしたんですか?」
言葉を投げ掛けてきたシュルクに、
「良かったら、付き合ってくれ」
「え?」
「終わりそうにないからな」
そうとだけ言って、1人でさっさと歩き始めた。
「え、ちょっと、アイク!?」
断ることすらさせてもらえず、シュルクが慌ててモナドを持って追いかけていく。
「アイクさん?」
騒ぎに気付いて、ルキナも怪訝な顔をアイク背へと向けた。
「どちらへ……」
「ルキナは僕と!」
ルキナが自分の立ち振る舞いを考える間を与えず、今度はピットが立ち上がった。
「天界、まだ案内してなかったよね!」
「え?そう、でしたっけ?」
「行こっ!」
「で、ですが」
「温泉、入れるかもしれないよ」
「温泉?」
ピットの思った通りに、ルキナの思考が傾く。女性は大概、温泉が好きだ。
「ほら!」
隙を逃さず、ピットはルキナの手を取った。
「あ、ピット、待って……!」
ルキナはピットに引かれ、やむなくその背を追うこととなる。
もともと人がいた割にはそう賑やかでもなかった空間ではあるが、
観客が消えてしまうと、そこに在った静寂はなお一層勢力を強め、辺りを支配する。
ギンッ
マルスの剣が振るわれ、リンクの剣に受けられ、双剣が高く鋭い音を放った。
放たれた音は空へと散り、静寂に包まれて消える。
リンクはマルスの剣を振り払いつつ、半身を引き、そこから素早い突きを繰り出した。
マルスはそれを右にかわすと、開いたリンクの左脇へと斬撃を加える。思わずのけぞるリンクに、マルスはさらに素早い追い打ちを仕掛ける。
リンクはどうにか盾で受けながら、次なる一手を探る。
観戦者がいなくなった今、2人は何者でもなくなった。
演者でもなく、奏者でもなく、ましてや道化でもない。
2人は各々が為に剣を振えばよかった。
なのに、どちらもそれができなかった。
下から振り上げられたリンクの剣、マルスはこれもかわして、また一つ、二つと斬りつける。
鋭さを増す斬撃の一つ一つを、リンクは剣で受けていく。徐々に疲労感を覚えはじめ、それが自覚に至ると、どちらの動きにも粗が出てくる。
互いに呼吸を乱すことはなかったが、精神的にも肉体的にも、2人は確実に臨界点を迎えつつあり、
双方は徐々にこの勝負の着地点を探り始めていた。
そなるとやはり、分はマルスにある。
たまりかねてリンクが放った回転斬りが、あえなく空を裂くと、隙を捉えてマルスが、リンクの背後を取った。
好機を逃すことなどマルスはしない。
遠慮なくリンクの服の襟首をつかみ、ぐっと拳に力を込め、自分の方へと引きこんで、彼の身体を地へ引き摺り落とした。
リンクは思いきり背中を地面に打ち付けられ、声をあげる間もなく、その喉にマルスの剣が突きつけられる。
上段に構えられたマルスのファルシオンが、光を受けて一条の輝きを放った。
光の奥から、マルスはリンクへ眼差しを送る。リンクも負けじと、息と共に声が漏れるのを懸命に抑えつつ、その眼を見返す。
剣の光の眩さとは裏腹に、マルスの瞳は、まるで深淵のごとき昏さを纏っていた。
感情はおろか、何も、そこに映してはいなかった。自分の姿も、相手の姿も、何も。
「僕の勝ち、だね」
虚ろな文句が、空を渡った。
その言葉に込められるべき感情、喜び、憔悴、優越感、苦悩、悲しみ……マルスはどれも見せやしなかった。
ただ虚しい音が現れ、そして消えただけ。
リンクの歯ぎしりが後に続いた。
「……どこ、見てんだよ」
くぐもった声が低く響いて、マルスの意識を揺らした。
マルスが受け止め切らずにいるうちに、リンクの喉の、奥の奥から、言葉が、今度ははっきりとした熱情を孕んで、繰り返し吐き出される。
「何処見て言ってんだッ!!」
直後、マルスの体に何かが触れた。
予想だにしていなかったものだから、それがリンクのブーツの靴底だなんて、マルスは思いつきもしなかった。
「―――でりゃぁぁッッ!!」
叫びと共に、リンクは地面についた両の腕にありったけの力を込めて伸び上がり、両の足でマルスのことを蹴り上げる。
弾かれたマルスは抗うすべを持つはずもなく、重力の導きによってその背を地に着けることとなる。
天を仰ぐ。陽光があった。
それらを背に負い、身に黒々とした濃い影を纏って、リンクが降ってくる。
瞬きの間に全ては済んだ。
マルスの右頬を、リンクの剣がかすめ、剣先が地を貫く。音が響く。美しい金属が、硬き大地叩き、削る音。
その余韻がマルスの耳に纏わりつく。纏わりついて、離れようとしない。鼓膜を抜けて頭の中で延々と反響し続ける。
マルスの眼前で、喰いしばった歯の隙間から、荒くなったリンクの息遣いが漏れた。
荒々しい表情で、リンクはマルスを睨みつける。
マルスはその瞳に射られて、そこから目が離せなくなった。深く青く、吸い込まれそうな色に、影が揺らいでいる瞳。
いつもならば、その影に怖れなど抱くことはない。
だが今は、彼の抱く影が揺らいで輝くたびに、自分の喉元を今にも裂かんとする牙の存在が想起された。
マルスは牙に恐れを抱いた。しかしそれは、リンクの表した激しさの所為だけではないように思えて、余計に、恐ろしかった。
次第に、リンクの身体が落ち着きを取り戻していく。図らずも高ぶっていたマルスの鼓動も、同じく元に戻ってゆく。
互いに鎮まるころになって、リンクはようやく剣を引き、マルスもやっと少しだけ体を浮かすことができた。
「あんたの勝ちだ、マルス」
そうとだけ言い残すと、リンクは、マルスに背を向けた。
剣をしまうこともせずに、ゆっくりと、リンクはその場から離れてゆく。
取り残されたマルスはせめてもと身を起こし、去ってゆく彼を見送る。
言葉も出せず、手も動かせず、リンクの背中を見送って、
それが消えてしまうと、マルスはまたゆっくりと背を倒し、地に付けて、しばらく、黙って天を仰いでいた。
それからどれくらい経ったのか、まるでわからなくなった頃、マルスは再び、城の自室へと戻ってきた。
灯りも灯さず、剣を置き、他の装具も丁寧に外して、まとめて棚へ放る。そうしてそのまま、ベッドへと倒れるように身を横たえた。
木枠の軋む音がする。それが失せ、部屋が静まり返ってもなお、マルスは空気に耳をじっと澄ませていた。
目を閉じることすら億劫に思う。半分開いたままの瞳で、冷たい闇の中の天井を見詰めた。
しばらくそうして、何の音も光も感じないまま、義務的な手つきで上着の留め具を1つずつ外していく。
全部外してしまって、また手を床の上に放って、何もない天井を見つめる。
なんだかとても疲れてしまったように感じる。
あれから、マルスはとにかくそこらじゅうを歩き回った。
じっとしていると何かが壊れてしまいそうで、とにかく体を動かしていたくて、何か、誰か、気を紛らわせてくれることはないかと探し回った。
けれどこういう時に限って、ファルコはミッションだといって飛んでいってしまうし、
ルイージはキノコ採りで忙しそうだし、クッパは寝てるし、ガノンドロフは見向きもしてくれない、ミュウツーに至っては姿を見せもしない。
結局、何にもしないまま、精魂だけは尽き果ててしまって、河を漂う流木のごとく、この部屋へと戻ってきた。
何もしてないはずなのに、体が水を吸ったように重たい。こうして動かずにいれば、冷めて固まってしまいそうだ。まるで、蝋のように。
そうだ、きっと固まるのだ。この体は人形なんだから。蝋人形のようなものなのだ。動かずにいれば、冷えて固まり、動かなくなる。
同じだ、自分も、彼も。
動かぬはずの身体は、気付けばまた戸棚を見ている。
動かぬ人形が、そこにはいる。このまま動かなければ、僕も、彼と同じようになれるのだろうか。
(何言ってんの)
彼の笑う声が聞こえた気がして、自分も笑える気がした。
マルスはふうと大きく息を吐いた。
別に、忘れたい訳じゃないのだ。彼の記憶は今でも鮮やかで、時たまこうして現れては、いつもの笑顔で、自分を元気付けてくれる。
忘れたいなんて思わないし、かといって、戻ってくるわけもない、と、ちゃんと知っている。
その辺のことは、きちんと受け入れているつもりだ。
だけど、自分の中に確かにあるこの想い、
忘れようにも忘れられず、忘れるつもりもなく、ただ自分の内面に留めて大事に大事にしまっておくべきこの想いを、
もう一人のリンクに重ねてしまうのは、あまりにも非道で、身勝手で、礼儀知らず、そう自分でも思う。
(どこ見てんだよ)
彼の言葉が思い出される。まったくその通りだ。
そういえば、どれくらい眠っていないのだろう。そろそろ、ちゃんと眠らないと。
一度眠って、リセットするんだ、身体を。どこか狂ってしまっているこの体も、心も、全部、眠って、忘れて……
(起きたら、なくなってたりするかな)
戸棚の中を想って、胸が絞まって、マルスは顔を寝床に伏せて、無理やり目を閉じた。
夢の中でも、マルスの心は真に安らぎを感じることはできなかった。
まるで周囲を『もや』に包まれたように、気怠い空気を感じていた。
その『もや』は、淡い色をしていて、どこまでも優しい、そして確かな重量を孕んでいる。
全てを委ねてしまえば楽になれるのかもしれない。それができない自分のことを、皆きっとこう呼ぶのだろう。「不器用だ」と。
皆、笑うんだ。
笑わない者は、無表情で見るんだ。
誰も、責めたり咎めたりは、してくれない。
なぜだろう。こんなにも、愚かしい僕を、なぜ誰も咎めてくれない。罰してくれない。なぜなのだろう。
―――わからない。
なにもわからなくて、ただ疲れきってしまった。
ベッドに体を投げ出せば、全て忘れられると思ったのに、自分をとりまく『もや』は消えない。
むしろより明確な重みを持ってのしかかってくる。
まるで蜜、ハチミツみたい。
甘くて、重たくて、輝いていて、纏わりつく、離れない―――
蜜の香りが、マルスの感覚を仄かにくすぐる。
マルスは重たい目蓋を薄く開けた。
(―――マルス)
優しい声に、呼ばれた気がした。
青い瞳がマルスの顔を覗き込んでいる。まっすぐで、無邪気で、いつも笑っている、彼の瞳。
夜の仄かな光の中でも、彼の白い肌と金の髪、そして青いその瞳は、淡く、でも揺るがぬ強さで、いつも輝いていた。
いつも笑ってて、いつも優しい声で、いつも、いつでも、この名を呼んでくれるのだ。
そう―――彼とは、違う。
マルスは一度、ぎゅっと強く上下の目蓋を閉じ合わせる。
「マルス」
微れるような声で名を呼ばれて、マルスは今度はしっかりと目を開けた。
リンクがいた。
彼の顔が、すぐ目の前にあった。白い肌に、くすんだ金色の髪、いつも影を纏っていて、なのに誰よりも真っ直ぐな色をした瞳の彼。
彼はマルスに馬乗りになっているような形らしかった。両腕が、マルスの両肩に触れるか触れないかのところで張られている。
距離が近い。とても近い。互いに孕んだ熱を交わせるくらいの距離。
マルスはじっと、眼前の瞳を見続けた。青い硝子玉のような曇りなき色に、光と影が揺らいでいる。
重たげな目蓋と相まって、彼の顔は、不安と戸惑いのそれに見えた。
実際、彼は、戸惑っているらしかった。
一度名を呼んだきりで、口はきゅっと結んでしまって、ただじっとマルスを睨むことしかできないでいる。自ら、ここまで来たというのに。
時が止まってしまったのではないかと錯覚するほど、2人は共に動くことなく、ただ沈黙の時に、静かな呼吸を乗せるだけに留まった。
静かだった。
そこには高ぶる熱情も、融ける情愛も、見当たらなかった。
「ねぇ」
マルスが密やかな声で呼びかける。リンクが、緊張でわずかに肩をすくませた。
「どうして蜂蜜の香りがするの?」
「へ?」
リンクが気の抜けたような声を上げた。
「それからもう1つ。どうして、窓から入ってきたの?」
立て続けに聞かれ、リンクは、少しは抵抗を試みたらしく、しばし無言でマルスを睨む。
けれどすぐに諦めて、やっと、はぁ、と長い息を吐き出した。目の前で緩んだ彼の表情に、マルスは、手を伸ばして触れてやろうかと思った。
けれども、結局、何もすることはできなかった。そんなことしても、彼の顔を再び困惑で固めてしまうだけで、何も産みはしない。
マルスが見詰める目の前で、リンクはマルスの上からズリズリと後ずさり、衣擦れの音と共にベッドから下りた。
そのままマルスの足元あたりに座り込む。
「……なんで、窓から入ったって?」
「僕は窓を開けていない」
マルスも、答えながら、上半身を起こす。半端に乱れた上着が肌を擦った。
「それに、机にカンテラもないみたいだから」
この部屋は、窓を開けないと暗いのだ。
外の廊下は明かりが灯っているが、この部屋にはない。リンクが忍び込むのに窓を使ったこと、簡単に想像がついた。
リンクが降参を示すかのように、深い息を吐いた。
「香りは、たぶん、蜂蜜運んだから」
沈んだ声色で、リンクが1つ目の問いに答える。
「あの後、姫に捕まって、今度は俺がもらいに行ったんだ、ドンキーたちに」
未だに蜜の香りは仄かに部屋を染めていた。手だか服だかにでも付いているとみえる。
捕まった、という言い草からして、つまみ食いでもしたか、それとも単にタイミングが悪かったか。
……もしかしたら、恵投、だったのかもしれない。覇気に欠いたリンクへの、気晴らしという名の贈り物。
姫たちの優しい笑顔が思い浮かんだ。きっと今頃、楽しそうに華やかな菓子を焼いているにちがいない。
「窓から入ったのは」
リンクは身をいっそう縮こませながら、呟くように答えた。
「驚くかな、と思って」
「驚く?僕が?」
「ここんところ、あんたに振り回されてばっかりだったような気がして、……ちょっとやり返したくなったんだ」
「……意外と、子供っぽいところ、あるんだね」
言ってやると、リンクはぐぅと唸って、両肩をすぼめた。
「悪かったよ」
「え?」
突然の言葉に聞こえたか、リンクが顔を上げ、マルスを見やる。
「……悪かった」
マルスは繰り返した。
「気付いてた、だろう?僕は、君の事など……まるで見ていないんだって」
言葉にしてみて、マルスは自分でも噛みしめて、その胸が締まるのを感じた。
どうしようもなくて、体の下で皺になっている薄い肌掛けをぎゅっと握りしめた。
「……やっぱり、そういうこと、なんだな」
リンクがぽつりと呟く。マルスは続きを待つ。覚悟していた。もう、なんと言われても、どんな言葉で貫かれても構わない、そう思っていた。
だが、
「これのせい、なんじゃないか?」
ふと、リンクが何かを掌に乗せ、マルスに差し出す。窓から入る薄い光の帯の中で、それはよく見えた。
彼の手の上の物、それは、一体のフィギュアだ。
「これは……」
「エポナ……勇者の愛馬の、フィギュア」
リンクが言葉を継ぐ。彼の大切な仲間の名前、マルスもよく知っていた。
「憂さ晴らししてて、拾ったんだ」
『憂さ晴らし』という言葉に、リンクも後悔したのか、少し口調が沈む。
フィギュアは、綺麗な姿をした馬、そして、その乗り手の姿が模されている。
乗っているのはリンクでは、今目の前にいる彼ではなかった。
もっと前の時代、時の勇者。
「はじめ見た時、ちょっと複雑な気分になったんだ」
リンクは言いながら、フィギュアを自身の前へと運ぶ。
「とても懐かしい気持ちになった。これは、俺の知ってるエポナじゃないのにさ」
フィギュアに落とした目を細める。
「全然違うのに……すごく、似てるんだ」
そうしてきゅっとフィギュアを握って、再びマルスへと顔を向ける。
「あんたも、これか、あの人自身のフィギュア、見たんじゃないのか」
リンクの真っ直ぐな言葉と視線に、マルスはうまく答えることができず、詰まった言葉が喉の奥で、呻きを上げた。リンクが先を続ける。
「おかしいとは思ってたんだ」
再びリンクの瞳に影が落ちた。
「ここ最近、マルス、俺のこと避けてるんだか、見えてないんだか、よくわからない感じで……かと思えば、あんな風に……」
リンクが言葉に詰まる。
「俺、どうしたらいいのか……わかんないよ」
声も体もしぼめきって、リンクが口を噤んだ。冷たい沈黙が2人に降りる。
マルスは居たたまれない気持ちになって、思わずまた謝ってしまいそうになるのを、どうにか堪えた。
息を詰め、在り来たりな文句に頼らぬ、本当の謝意を示すべく、言葉を選ぶ。
「……きっかけ、でしかなかった……んだと思う」
ゆっくりと、思いを口に乗せて、吐き出してゆく。
「確かに僕は、最近おかしいと自分でも思うし、それは……フィギュアを、見たことがきっかけ、だよ」
言って更に、間違いない、と付け加える。
「でも、その前から……それこそ、出会った時から、僕は君をちゃんと見てなんかいなかった」
苦しい胸の内を、正直に告白する。
「君と彼を、ずっと、勝手に、重ねてた」
全然違うのに。
はっきり言って赤の他人だというのに。同じ名前と同じ服、同じ肩書に同じ剣―――ずっと、重ねてきた。
自分の求めるものを、彼の上に被せていた。
「僕は、君のこと、ずっと―――」
「違う」
と、リンクが、マルスの言葉を断った。
「マルス……あんたはそんな、謝るようなこと、してない」
「だけど」
「当たり前なんだよ」
リンクは目線を落としたままで、きっぱりと言った。
「俺とあの人、重なって当たり前だろ。俺は、あの人の代わって、ここにいるんだから」
リンクが一端、言葉を切った。だがマルスが何も言えないでいるうちに、リンクは次の句を告げる。
「俺もずっと思ってたんだ」
「……何を?」
「なんで、隠すのかなって」
「隠す?」
「あんたが俺とあの人重ねてるってことをだよ」
「それは、当然じゃないか、そんなの」
「何が当然だよ、隠すほうがオカシイだろ、こんなにわかりやすく『後継ぎ』やってんのに」
マルスは何と返していいかわからず、ただ目を丸めてリンクを見つめる。
「他の皆は堂々と重ねてる。特にフォックスとファルコなんか、いっっつも引き合いに出してくるし」
リンクは2人の名を、ちょっと煩わしそうに挙げた。
「サムスも、ネスも、ピーチも……ピカチュウにだって、比べられてる気がする」
次々と口に上る仲間たちの名前は、静かな響きの中に、少しの疎ましさと、少しの愛おしさが籠ってるように聞こえた。
「皆、比べてるんだ、俺と、あの人」
リンクはきゅっと唇を噛んで、そうして、
「でも仕方ないことなんだ、それは」
毅然とした言葉で、先を続ける。
「俺とあの人の繋がりは確かにあるし、あの人はそれだけのことをしてる。
皆が話して、皆が俺に重ねる、それは、それだけあの人が凄かったってことで、俺がちゃんと受け止めなきゃならないことなんだ」
リンクはうつむいた姿勢のままで、マルスへ視線を送った。
「マルスがあの人のこと、思い出したくないって言うんなら、俺は、何も言わない。……何も言えない」
一度、遠慮がちに目を伏せて、
「けど、もし……」
リンクは再び、今度はしっかりとマルスへと顔を向けた。
「もしも、俺のために気持ちを殺してるんだったら、そんなこと、しなくていい。俺なんかのために……」
少し言葉に詰まって、また瞳に影を落としながら、こう言った。
「俺なんかのために、悩むなよ」
マルスはじっと聞き入って、目を閉じた。
そんな言い方、よくない。
君は君で、きちんとやっているんだから。
彼から受け継いだものはちゃんと守っているし、それでいて自分が自分で在ることもちゃんと守っている。だから、そんな言い方……
リンクが「うっ」と息を呑んで、目を見開いた。
同時に、マルスの出しかけていた言葉は全部、虚空に消えてしまった。
リンクの顔を見て、そしてマルスが、自分の表情に気付いた瞬間、その瞳から、一筋、涙が落ちて、頬を濡らした。
―――泣くなんて、どれくらいぶりだろうか。
こんな気持ち、忘れてた。忘れていることすら、忘れていた。
「……ま、マルス……?」
リンクがベッドの上に肘を上げて、少し身を乗り出した。けれども、それ以上近づくこともできないまま、リンクはマルスの顔から目を外す。
「やっぱり、俺じゃ……こういう時どうしたらいいかわかんないよ」
心底困った様子で、弱々しい声を上げるリンクを前に、マルスは自然と笑みをこぼした。
「彼は……」
言いかけて、マルスはあえて言葉を呑み、言い直す。
「リンクは、何もしてなんかくれなかったよ」
目に溜まった雫を右手の甲でそっと拭った。
「ただ、ただ傍に居てくれただけ」
マルスは躊躇いながらも、左手をすっと伸ばして、ベッドに置かれたリンクの腕に、その手を置いた。
「リンク」
呼ばれて、リンクは目線を上げる。マルスはその目をまっすぐ見て、先を続けた。
「もし君が許してくれるのならば、今日だけ……僕が眠っている間だけ……そこに、居てくれないかな」
言ってしまって、マルスは恥じらいと共に、リンクの顔から視線を反らす。リンクは黙って、小さく、頷いた。
「俺も……あんたに頼みたいことあるんだ」
「なんだい?」
「時の勇者のこと、話してくれないか」
リンクははっきりとした口調でそう言った。
「ちゃんと聞きたいんだ。あの人が、どんな人で、どんな剣を振って、どんな勇者だったのか……あんたの口から、ちゃんと聞きたい」
聞いて、マルスは柔らかく笑って、「わかった」と返す。
「でも長くなるよ、きっと」
「望むところ」
リンクの口元から、わずかに白い歯が覗く。左手で触れた彼の肌が、とても温かく感じられた。
窓から静かに風が吹き込む。いつの間にか、蜜の香りは消えてしまっていた。
マルスを包んでいるのは、窓から入る薄い光と清い風だけとなった。
「先輩っ!ワンワンは飼い慣らしたら武器なるって本当ですか!?」
顔を合わせるや否や、唐突に椅子から立ち上がって、ルキナはそう尋ねてきた。
真剣な眼差しの彼女に、マルスはいったいどちらからツッこむべきか、思案する。
ピーチ姫の居城の一角、小さなお茶会のための部屋でのことだ。
丸いテーブルに椅子は4脚、お客は2人。
テーブルにはティーセット一式、そして真ん中の大皿には、黄金色のカップケーキが数個乗っている。
先日持って行った蜂蜜でケーキを焼いたと聞かされ、ピーチ姫を訪ねたら、こちらに案内された。
テーブルに乗ったものが、そのケーキなのだろう。おそらく皿いっぱいに盛られていただろうに、既にほとんどなくなっている。
これは早く席について、1つでも多く頂きところ、ではあるのだが、
ルキナの言葉、放置するには問題が多すぎる。
「武器になるって、どういうことかな」
とりあえず、どうでもいい方から聞いてみることにした。いったい何処でそんな話を聞いてきたのやら。
この世界で、ワンワンとはアシストとして出会うことが多いのだから、誰かの武器になるというのは間違いではないだろうけど……
「振り回せるって聞きました」
やっぱりそうではないらしい。
「誰から聞いたの?」
「アイクさんです」
マルスは、ルキナの向かいの席へと目をやった。そこでは、まさにその人物が、無表情無感動にケーキをかじっている。
「俺はネスから聞いた」
ケーキを平らげてしまってから、なんとも簡素な言葉をアイクは返した。
弁明かなんだかわからないが、とにかく無関心なのは確かなようで、
アイクはマルスに見向きもせず、また1つ、ケーキに手を伸ばしてかじりつく。
「……リンクぐらいだろうね、そんなことするの」
ほとんど蔑みの気持ちで言ったつもりだったのだが、ルキナには尊敬の念と受け取られたらしく、彼女は羨ましそうに瞳をきらきらと輝かせた。
……まぁ、いいか。きっと、この子が試そうとしても、ルフレかクロムあたりが止めてくれる。……たぶん。
「で、ルキナ」
こっちは適当に切り上げて、マルスは、より気になった方に話を変える。
「先輩って?」
「あ……」
流したとでも思っていたか、ルキナは不意を突かれた様子で、恥ずかしそうに目を反らす。
「あの……先日、呼び方を直せと仰られたので……」
マルスは再びアイクへと目を向けた。
「それも君からか」
「そんな呼び方をする奴も居ると聞いたからな」
残りが少なくなってきたケーキの皿に少々遠慮を見せながら、アイクはちらとマルスに目をやった。
「いけなかったか、先輩」
わざとらしい言い様に、マルスは溜め息が出た。
ふてぶてしいアイクに対して、ではない。彼の視線と口調が、こちらを咎めているように感じてしまう、そんな自分自身に対してだ。
少し後悔する。ルキナにあんなこと、言うんじゃなかった。
「ルキナ、悪かった」
マルスが謝ると、ルキナは驚いたように声も顔も上げた。
「もう君の呼びやすいように呼んでくれていいよ」
「よろしいのですか?」
「あぁ。でないと、より互いに気を使うことになってしまいそうだからね」
彼女にとっては、丁寧な言葉と敬称を使うことこそが自然なのだろう。そこを汲まずに直させるのは、こちらの身勝手でしかない。
「ありがとうございます、……マルス様」
ルキナは、少しホッとした様子で頬を緩める。彼女の穏やかな笑みに、マルスも安堵を覚えた。
「部屋のフィギュアは片付いた?」
マルスは話を続けながら、空いた席の椅子を引く。
マルスが座ると、ルキナも再び席に着き、マルスの前に伏せられていたカップを取って、お茶を注いでくれる。
「少しづつですが、片付けているところです」
答えながら、ルキナはマルスの前へカップを据え、マルスは「ありがとう」と伝えた。
暖かく湯気が立ち上り、華やかながら落ち着く香りが、マルスにも届いた。
「マルス様がされていたようにして手放したり、たまに、人に譲ったり」
「へぇ?」
「シュルクにリキさんのをあげたら、とっても喜んでくれたんです」
ルキナが嬉しそうに微笑む。
「『きっとリキが喜ぶよ』って、言って」
「あぁ、リキならきっと喜ぶね、自分のフィギュア」
簡単に想像ができて、ルキナと共に笑い合った。
「マルス様は」
と、ルキナに話を向けられ、マルスは注いでもらったお茶を口に運びながら、ルキナを見やる。
「どうされました?」
「何を?」
「お渡ししたフィギュアです」
白々しく聞き返しても、ルキナには通じない。
マルスは無垢で真っ直ぐすぎる彼女の視線を、感じながら、お茶をもう一口、ゆっくりと嗜む。
「私、リズおばさまのフィギュア、まだ手放せずにいるんです。マルス様は、どうされたかな、と」
ルキナの言葉を聞きながら、マルスはケーキの皿へと手を伸ばし、最後の一つをつまみ上げる。
視線を感じて、そちらを見やれば、アイクが訝し気な眼差しで、こちらを見ていた。
物珍しいものでも見ているかのようだ。ま、それはそうだろう、とマルスも思う。フィギュアをもらうなんて、たしかに『らしくない』。
マルスは、手のケーキを吟味する振りをしながら、アイクに向かって口元を引き上げて見せる。そして、ルキナに視線を戻し、
「……ナイショ」
いたずらっこく笑いかけて、ケーキを口に含んだ。甘い蜂蜜の香りがマルスの口いっぱいに広がる。とても美味しい。
もう一口、右手でケーキを運んでかじりながら、左手はテーブル中央へやる。
空いた皿を持ち上げ、そのまま言葉なくアイクへと押し付けた。ケーキがこれいっぱいに再び盛られてくるのを期待して。
Back