聞こえた、グラスの合わさる音に、目を開く。
バーのマスターがカクテルグラスを片付けていた。
目を閉じて、再び開くまでどれだけの時が経ったのだろうか。
店内の様子はほとんど変わっていない。
カウンターの中ではバーのマスターがグラスを磨いていて、
テーブル席ではおじいさんが、酔いつぶれたのか眠っている。
カウンター席にいるのは自分だけ。
その目の前に、一口だけ飲み残されたままのグラスが置いてある。
ドアの開く音、
ふいに夜風がそよぎ、髪を撫でる。
「いやぁ負けた負けた」
潔い口ぶりで呟きながら入ってくるのは、ヘンリーだ。
手ぶらで、頭をかきながらこちらへと寄り、隣に腰掛ける。
「おかえり」
「おぅ」
「1文無し?」
「いや、これだけ残しといた」
と、
ゴールドを1枚、カウンターに乗せる。
マスターの目配せに答え、それをスッと前に出した。
「防具は買い揃えられそうにないね」
「今あるのでじゅーぶんだよ」
「普通に服も買った方がいいんじゃないの?」
「いーよ、何着たらいいかなんてわかんねぇし」
ヘンリーは、いまだに奴隷の服装を身につけている。
新しく鎧やら何やらを買って少しはマシになったのだが、
なぜか、彼は必要以上の日用品を揃えようとしなかった。
マスターによって差し出されたカクテルに、ヘンリーは口をつける。
「それよりお前、今日は置いてきてよかったのか?」
「何を?」
「あいつらだよ」
あぁ、とすぐに納得する。
仲間のモンスター達のことだろう。
「昨日は街中まで連れてたじゃないか」
「うん。そのほうがいいかと思ったんだけど、
やっぱり人間の目って怖いみたいだよ、スラりんとか特に」
「そう!あのスライム!」
と、ヘンリーが声を上げる。
「あいつ、何で喋るようになったんだ」
ヘンリーの口調が多少、忌々しげだ。
そういえば、
スライムレースに出たスラりんに賭けなくて、それで負けて、
勝ったスラりんにからかわれていた。
「さぁ・・・なんでだろう?」
町の近辺で出会い、仲間になったスライムのスラりん。
はじめはスライム特有のピキーという鳴き声をあげるばかりだった。
しかし、
昨日だったか、今朝だったか、
人間の言葉を話し始めたのだ。しかも、これがなかなかに賢い。
少しレベルが上がってきて呪文を覚えだし、ヘンリーと口げんかまでする様になった。
王様気質のヘンリーと少々生意気なスラりん、
見ているほうとしては、いいコンビだと思うのだが、
彼はそう思っていないらしい。
「変なもん食わせたんじゃないだろうな?」
「それはないけど・・・ビアンカのリボンかな、やっぱり」
「リボン?」
そういえばそんなものつけてたな、と
記憶を辿るヘンリー。
「ビアンカって、お前の幼馴染だっけ?」
「そう」
「ガールフレンドの思い出の品をあいつにくれちまったのかよ?」
「もともと、ボロンゴがつけてたからね」
「・・・あぁ、あの変なネコ」
「ビアンカは、ボロンゴにあげたんだ。
・・・なぜか僕の持ち物に入ってたみたいだけど」
「ふーん?」
そうとだけ言って、彼はカクテルのグラスを傾けた。
彼にとっては、もう何べんも聞いた思い出話より、
この先、如何にしてあのスライムをスライムらしくさせるかの方が重要だ。
「・・・」
「・・・」
店には相変わらず人が来ない。
マスターがお酒の瓶とグラスを整理する音だけが響く。
2人は黙って、カウンターに身をもたげ、
それぞれの飲み物をじっと見詰めていた。
「・・・本当に、明日、でいいんだな」
「うん。・・・ヘンリーこそ、本当にいいの?」
「何度も言っただろ。俺はお前についていく、それだけだ」
「・・・うん」
彼の言うことは変わらない。
人についていくと言うだけで、何を決めているとは言えないが、
未だに自分の行く道を決めかねている自分よりはよっぽどマシに思えた。
「・・・お前、何杯目?」
「ん?」
「だいぶ酔ってる」
「そうだね。ヘンリーも飲んだ方がいいよ」
「明日から町出るってのに、そんな飲めるか。金もないし。
お前は大丈夫なのかよ?」
「だいじょうぶだよ」
笑って見せると、
ヘンリーは変な顔でこっちを見返してくる。
心配してるというよりは、呆れているんだろう。
・・・
何も、だいじょうぶなどではない。
ヘンリーにはまだ言っていないが、
手元に残っていた父の世界地図、
それに、この町で過ごした数日の間に耳にした話を照らし合わせると、
この町が、以前自分達のいた地よりそう離れていないことに気付いた。
北の廃れた村、北西の悪評はびこる城下町・・・
これらが、何処のことなのか。
ヘンリーは故郷には帰らない、帰れないと言っているが、
それが本当に正しいのかも、わからない。
まだ迷っていた。
明日、町を出て、
南へ行くか、北へ行くか。
南へ下っていけば、それこそ当てのない流離い旅。
それもいいかもしれない。もともとはそのつもりだった。
だが、
村がなぜ廃村と化しているのか、
城下の不穏な影の噂は真実なのか・・・。
・・・
もちろん、全て忘れて新しい道を歩むこともできる。
今なら、まだ。
「ねぇヘンリー」
「ん?」
ヘンリーがこちらを向く。
無邪気な瞳が、こちらの目をじっと覗き込む。
何年経っても、何も変わりはしない。
彼は持ち前の明るさで、この10年、それを保ち続けた。
それに比べて、自分のは、さぞかし歪んだ笑みを湛えているのだろう。
「・・・まーた悪巧み、してんのかぁ?」
さすがはヘンリー、こちらの心の内に感づいたらしい。
まぁ仕方がない。
今まで、何度もこんな調子で悪いことを話し合った仲だ。
「いいや。
ただ、北と南、どっちがいいかなぁって」
「おいおい、俺達、南から来たんだぞ?」
「でも北はイヤな噂ばかりだよ。そうでしょ?マスター」
「はい・・・
ですが、最近はどこからもそんな話ばかりですよ」
「あれか?廃れた村があるんだっけ?北に」
「そうそう」
「何もないところよりは、廃れてても村がある方がいいんじゃないか?
人がいないわけじゃないだろ?」
ヘンリーは、城下以外の土地をまったく歩いたことがない。
村のことなど知る由もないだろう。
今はただ、どんな場所でも見てみたくて仕方がないのだ。
「お2人は、この辺りに来るのが10年ぶりと仰っていましたね」
「ここらどころか世界が10年ぶりだ」
「ならなおのこと、お気をつけ下さい。
ここ最近、辺りの魔物が強くなっているそうですので」
「なーに、心配ないさ。こう見えて俺、魔法使えるんだぜ?」
「ほぅ、それは心強いことです」
確かにヘンリーは、この数日で戦い方を覚えたらしかった。
基の素養もあるのだろうが、けっこう色々な呪文を覚えてくれる。
それに、仲間にしたモンスター達に対しても、
あぁだこぅだと文句は言いながらも、彼は決して嫌ったりしなかった。
彼を見れば、
当てのない2人旅でもなんとかやっていけるように思える。
・・・
地図はしまっておこう。
もともと迷うつもりの旅だ。地図なんて必要もない。
「よっしゃ!景気づけに乾杯しようぜっ!」
「いいね、それ」
「ほらじいさんも!毎日ふて寝してんなよ!」
「ひゃッ!?な、なんじゃ??」
ヘンリーの後ろのテーブルから、
水でも投げられたか、おじいさんの妙な声が上がる。
「我らの行く先に光あれ!・・・なんてな!」
修道院で何を読んだか知らないが、
ヘンリーの言葉に、今は声を揃えたい、
そう思いながら、
何も言わずにただ高くグラスを掲げた。
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